( はじめに)
石城寺を頂点として広がる内成の棚田は、1999年農水省の「日本の棚田百選」に選ばれた。農水省・農村環境整備センターが公表したデータによると「平均勾配 1/10・面積 41,7ha ・枚数1000枚 ・法面構造 石・水源 河川 ・開発起源 近世」となっている。大分県からは内成のほかに隣村の挟間町詰・由布川奥詰棚田など5箇所が選ばれているが、百選134ヶ所の中でも五番目の面積であり、規模・景観のいずれをみても県内はもちろん九州屈指の棚田であるといって間違いない。中島峰広氏は「すべてが一望できる範囲に収まっているという点からいえば日本でも1~2を争う規模といえる。」と評している。棚田は日本のピラミッドともいわれる歴史的文化遺産として、また日本の原風景とも言われる美しい景観に対する郷愁として近時ますます関心を高めているが、本稿では棚田の開発起源を探ることによって、内成の歴史の一端を検証してみたい。
(水源)
石城寺の麓からの湧水が水源である。豊後国志によればこの湧水は
「石上寺在笠和郷内成村。最古刹。安観音佛像一躯。蓋仁聞所造。堂後石崖出霊泉。大旱雨漏無増減。傳曰仁聞律師加持水。」とあり、仁聞菩薩の霊験譚とともに古くからの湧水源として伝えられている。
また雉城雑誌には石城寺七奇の一つとして
「一 水口ニ虚空ヨリ石落、両川ニ堰キ分ル事。寛治二年此事アリ。」と記し、大石が寛治二年(1088年)に落ちたとしている。里人はこの大石が水の流れを左右等量に分けているので「水分石」と呼んでいる。石城寺は文化年間(1804~17)に札所に指定された記録があるが、その御詠歌は
「あらそいし みずをわけぬる せきじょうじ たにあいふかき じひのながれを」である。
この歌の中に、一説にいう里人たちの水争いと水利権を握る石城寺の権威的立場が示されていると思う。
国志に謂う「大旱雨漏無増減」は現在でも同様であり、水量豊富で大雨後にも濁ることがない不思議な湧水である。志賀史光氏によればこの湧水は「小鹿山火山岩類(小杉火砕流堆積物や乙原溶岩)と由布川火砕流堆積物の境界に位置する」という。おなじ水系に属する志高湖(海抜570米)や神楽女湖(海抜550米)には地下水や湧水がなく専ら周辺の草原から流れ込む雨水を供給源としているのは、別府周辺の湧水の高度が200~400米に収斂されていることと関係がある。海抜500米を超える湧水口はないのである。
石城寺湧水は海抜450米・村で一番の高所にあり、天然の条件に恵まれて用水路の開削も比較的容易であったと思われる。その灌漑範囲は太郎丸(海抜300米)・梶原(同250米)・勢場(同250米)・中の迫(同200米)・で、御園や勢家には配水されなかったらしい。内成にはこのほかにも小湧水があり、大神峰神社境内の湧水と下畑の湧水を合わせて下畑集落の灌漑に当てていた。鎰掛集落は現在の「別府の森ゴルフ場」付近からの湧水を利用していたと思われる。
(法面構造)
殆んどの畦畔が石積である。石積による棚田造成作業の順序としては、
「最初に石積みが築かれ、それから表土,或は畑であれば耕土を脇に寄せる。次に予定する湛水面より高い山側の土を掘り取って、低い谷側に築いた石積の所まで運んで平坦にした後,漏水を防ぐために平坦面に粘土を敷き固めて、表土・耕土を戻してならし棚田が出来る。畦畔が石積になるには、表土の下に礫があるかどうかによって決まる。傾斜の急な棚田にはよそから礫を運んでくることは殆んどない。」(中島峰広・日本の棚田)ということになる。
内成には土の下から出る野石が多くありこれが大部分使用されたがその殆んどが角礫である。
石積による棚田の造成作業には多くの労働力を必要とした。和歌山県紀和町史編纂委員会が町内・丸山にある千枚田について調査したところでは、10a当たり延べ300人~400人の労働力が必要であったと報告している。
中島峰広氏が宮崎県諸塚村で行った調査では、1940年代に人力とカルイ(背負い篭)・カタクチ(手篭)・唐鍬などの簡単な作業用具のみによって実施された棚田造成作業において、10a当たり延べ400人前後を必要としたことが確認された。諸塚村の具体例では、作業の効率を上げるために、12戸の農家が結をつくり、各戸1人ずつ出役して毎年春、秋の農閑期にそれぞれ1週間,計2週間ほど行われたが、この計算で12戸の全農家が10a の棚田を完成させるのに28年間を要した。したがって各戸平均33aの棚田がひらかれるのには100年以上の年月がかかったとの報告がある。おそらく内成の場合も手順はほぼ同様であったろうと思われるが、結いをつくり共同作業をする上で、この村に特有の神家(ジンガ・宮座の別称)の組織が関与しているのではないかと筆者は推測している。「内成の棚田を守る会」の二宮清康会長は「内成には昔から石工と大工が多かった。石工はチームを組んで遠く鹿児島方面までも出稼ぎに行っていたという。七島藺も孟宗竹もこれらの石工が持ち帰ったものであるという伝承がある。石積みの技術は相当古くからこの地に根づいていた。」と話す。材料としての石が豊富であり、石工がいて石積みの技術が高いことなど内成には棚田造成の条件が揃っていたのであるが、それにしても長い年月をかけて棚田が出来たのであろう。
(開発起源)
農水省のデータでは近世となっている。歴史学上近世は、豊臣秀吉が小田原の後北条氏を滅ぼして戦国の騒乱に終止符を打ち、全国を統合した天正十八年(1590年)から、江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還した慶応四年(1868年)までの約280年間をいう。要するに豊臣秀吉の時代と江戸時代とをひとくくりにした幕藩体制の時代を近世として捉えるのが普通である。豊後の場合は、文禄二年(1593年)の大友除国後、所謂太閤検地を経て小藩分立となり、府内藩主に早川長敏が封じられた文禄三年から近世が始まると考えていい。ごく大まかに言えば内成の棚田は、西暦・1600年、関が原の戦いがあった頃以降に造成されはじめたというのである。農水省データの根拠が不明であるが、筆者はもう少し古い起源を持つのではないかと思っている。少なくとも中世中期には棚田が見られたのではないか。その根拠を以下に述べる
(Ⅰ)迫田型棚田の典型
海老沢衷氏は「荘園公領制と中世村落」で、迫田型の棚田をB型として
「(B型の棚田は)13世紀以降荘園史料でも確認できるもので、狭い谷間を這うように上る棚田である。水量の多い湧水点(イノコ)がある場合に発達したものとなる。多くの場合湿田であり、中世には安定した収量を見込める水田として領主の直轄田となる場合もあった。B型の棚田が発達しているところには、必ず中世以来の寺庵があり、石造文化財や古屋敷の存在が確認できる。」と解説している。迫田型の棚田がすべてこの類型にあてはまるとは断言できないが、内成の場合はこれにぴたり当てはまるように思われる。まず湧水点(イノコ)が豊富な水量を持つこと。弘安図田帳に地頭相模四郎(北条師時に比定)とあり北条得宗領であること。伝承ではあるが、宝亀年中創立の石城寺や元慶元年(877)創建の大神峰神社をはじめとする七佛七社があり、天正の兵火にそのいずれもが滅亡したという。七佛七社のうちいくつかは江戸期に再興され、廃絶した寺庵もその痕跡が確認できるので、中世に存在したことは確かであろう。天正の兵火とは、薩摩・島津軍が豊後に攻め入り乱暴・狼藉の限りを尽くした天正14年(1586)の豊薩戦争のことを謂い、中世の最末期の出来事である。また、内成には大神峰神社を中心とする宮座(神家・ジンガ)があり昭和初年まで存続していた。宮座は神社の経営ないし神事の執行に関する独占的権利を有する氏子集団の組織をいうが、その発生はおおむね中世といわれている。内成の宮座・神家が中世に起源を持つのかどうかは今後の検討課題であるが、宮座の存在そのものが中世の村の残影の一つであり正に生きた中世史であるといえよう。これらのことから内成は海老沢氏の指摘する条件にぴったり適合する棚田であり、中世の開発起源をうかがわせるに十分である。
(Ⅱ)村高
豊後国図田帳案(弘安8年・1285年)に
「内梨畑 大略依為畠地、代不分明也、地頭相模四郎」とある。読み下しすれば「内梨畑 大略畠たるにより、代不分明なり、地頭相模四郎」。口語訳では「ほとんど畠であるので、田数は不明である。」ということになる。
内梨畑はまた内梨子村(足利義満袖判下文・永和元年)とも内梨子畑(親世当知行所領所職等注進状案・永徳3年)とも書かれているが、地元の史料である小平の山神社に残る長禄二年の棟札には
「内梨内下尾平山神御宮之事旦那下尾平之弁才子十郎太郎立願作申所也」とあり、1458年に当たる長禄二年に「内梨」の地名が記載されている。これらのことから、「内梨」・「内梨畑」・「内梨子村」を同一のものとして、現在の内成に比定することは定説である。したがって弘安8年の段階では内成は畠ばかりで水田は殆んどなかったということになるが、石城寺の下から豊富な湧水があるのに、水田が開かれていないというのは奇妙に思えてならない。
正保四年(1647年)に成立した豊後国郷帳(正保郷帳)によると、
日根野織部正領分
高 四百九拾弐石四斗七升三合 笠和郷
内 三百三拾八石六斗壱合 田方 内成村
百五拾三石八斗七升弐合 畠方 木山有
となっており、水田面積の多い生産力の高い大村であり、それゆえに府内藩中郷内成組として大庄屋が配置されていたのである。この二つの史料からみれば、弘安8年から正保4年までの約360年間に畠が棚田になったことになるが、先にも引用したように、石積の棚田造成には多くの労働力が必要であり、長い年月をかけての造成となるから、おそらく100年~150年はかかったであろう。単純に考えれば少なくとも1500年頃、中世末期には棚田の造成が始まっていたのではないだろうか。開発起源を近世と限定する根拠は乏しいと筆者は考えている。
小出博氏の紹介によれば、中国では段状になった耕地を梯田と呼んで田と畑を区別せずに用い、日本における棚田と段々畑のような使い分けがないとのことである。弘安図田帳における「大略依為畠地」の畑地にもそのような厳格な区別はなかったのではないか、すでにこの時点で小規模の棚田は存在していたのではないかと思われる。
中島峰広氏は棚田の造成過程について、「土坡と石積の棚田を造成の時期で比較してみると、歴史的には造成が容易であったと思われる小区画の土坡の棚田が先につくられ、後に比較的区画の大きい石積が現れたとされている。(中略)土の下に礫のあるところでも、最初土坡で固められていたものが後に石工技術の発達・普及により、崩壊しにくい石積にかえられていったものと思われる。」(日本の棚田)と書いている。内成の場合もおそらく最初は土坡で棚田がつくられたのであろうが、水田は相当早くから、少なくも中世中期から開けていたのでないかと思われる。そう考えなければ、近世の入口である正保4年の豊後国郷帳にみる田方・三百三拾石余の石高が説明できないのである。
(Ⅲ)近世の村高(生産高)の推移
次に村高の推移によって検証してみよう
正保4年(1647・豊後国郷帳) 492,473石(100.00%)
明暦3年(1657・御取ヶ郷帳) 510,962石(103.75%)
元禄14年(1701・元禄郷帳) 526,032石(106.81%)
天保5年 (1834・天保郷帳) 595,047石(120.83%)
明治初年(1868・旧高旧領取調帳) 595,047石(120.83%)
正保郷帳では田方338石余、畠方153石余の区別がありそれによると、田方68,7%,畠方31,3%の割合になる。明暦以降は区別がなく合計の石高で表示されているが田方・畠方の割合はほぼ同じであったとみていいのではないかと思われる。元禄郷帳から天保郷帳までの130年間に約70石の増加があったが、これは小平井路の開削(貞亨4年・1687)によって枝村・詰村と小平村が水懸かりになったことの成果である。当時の内成村は現挾間町詰・小平地区を枝郷(枝村)として抱えていたが、本稿の対象である内成棚田は本村に位置し、現別府市に属する。小平井路の開削による増加と農業技術の進歩による増収を控除すれば、正保から明治初年にいたる220年の内成村の石高はほぼ平行であったといえるのである。ここで強調したいのは内成・本村は中世末から殆んど生産高に変化のない状況が明治まで続いてきたということであり、それは中世に開発造成された棚田を中心とする生産基盤を引きついできたということにほかならないのである。
(Ⅳ)小平井路の開削
天和元年(1681)一月、内成村の枝村・小平村の六左衛門(大野氏)らが発起して、由布川上流の現別府市大字東山合棚に取水する小平井路の開削が具体化された。当初の計画ルートは小平村から詰村を経て内成村下畑へと通す予定であったが、貞亨元年(1684)二月に内成村大庄屋太郎右衛門(平野氏)が「聊間違の廉にて御退役」となったため工事は中断された。二年ののち貞亨三年十月、内成村大庄屋を兼ねていた来鉢村大庄屋市左衛門(加藤氏)の要請により通水ルートが当初の内成村から来鉢村へと変更されて、翌貞亨四年三月完成した。小平井路は、小平・詰・田代・中畑・来鉢の各村に通水、灌漑面積は約100町歩に及び由布川左岸沿いの集落を潤す貴重な役割を現在まで果たし続けている。この井路の開削により枝村小平・詰は水田化され、前にみたように天保郷帳で大幅な石高の上昇を示したが、とりわけ下流の来鉢村の伸びが大きかった。日本の棚田百選に選ばれた「由布川奥詰棚田」はこのときを開発起源とする。小平井路の開削経緯の中で注目されるのは、当初内成村に通水する計画があった点である。このことは石城寺の湧水による水利が行きわたらない地域(下畑や鎰掛)があったということを意味する。大庄屋太郎右衛門はこれを是正しようとして頓挫したのであるが、下畑や鎰掛は旧来の小湧水口に頼らざるを得なかったのである。
(Ⅴ)畠と畑
日本で田といえば水田のことでありこれに対するハタケの漢字は「圃」である。われわれが日常使っている「畠」や「畑」は中国伝来の漢字ではなく、日本で作られた漢字すなわち国字である。この両字の相違に着目して、畠は定畠であり、畑は焼畑であると説く黒田日出男氏は「日本中世開発史」の中で
「平安時代とその以前では畑という字は使用されず畠のみであるが、鎌倉時代になると、畠と区別された畑という字が使用されるようになり、それは明らかに焼畑を意味していた。しかし、慶長・元和年間になると、同一検地帳のなかでも畠と畑の両字が混在するようになり、そしてほぼ寛永期になると畑の字で統一されるようになる。」と解説している。前に触れたように弘安図田帳に「内梨畑」と「大略依為畠地」が出ている。これに関して飯沼賢司氏は別府市誌の「得宗(北条惣領家)領の内梨畑」の項で
「内成は鶴見山の尾根が大分郡方面にのびた上に展開する村であり、水には恵まれていたが、川はなく、湧き水を使用して山の上に水田が開かれた。鎌倉時代は<ほとんど畠であるので、田数は不明である>と書かれているように、一面に畠が広がる景観であったと思われる。<畑>という表記は黒田日出男によって明らかにされたように、中世では焼き畑を示している。開発当初はまず焼き畑が行われ、やがてそこが定畠化していったとみられる。」と書いている。耕地の開発を要領よく順序立てて説明したものに、樋口清之氏の「梅干と日本刀」の一節がある。「まず山を焼く。焼畑開墾が最初である。林を焼いて、その炭や灰を鋤き込んで土に入れる。自然土壌は酸性が強いから、こうして炭や灰が含んでいるアルカリで中性土壌に変える。そこへカブやヒエ、豆を蒔いて収穫する。これが第一段階で、火で焼いてつくる耕作地だから、火の田、つまり畑である。耕しているうちに水平になり、木の根も腐ってなくなる。凸凹もなく,妨害物がない耕作地だから、白い田、つまり畠である。それが完全になって、水を引けるようになって、はじめて田になる。」と。おそらく内成の水田化・棚田化は
このようにして進められたのであろうが、弘安図田帳の頃にはすでに焼畑の段階を終え、畠すなわち定畠化していたのである。筆者はさらに一歩進めて、定畠の一部は段々田(棚田)となっていたのではないかと思っている。
飯沼氏は続けて市誌に「しかし、それにしてもほとんど水田がないこのような畑作地帯の内梨子がなぜ北条得宗領に組み込まれたのであろうか。生産という面からみれば、価値の高い所領とは到底考えられない。得宗領の特色として海上交通・陸上交通の要衝をその所領に組み込んでいる点が従来から注目されているが、この内梨畑も交通上の要衝の視点から考えるしかない。」と断じているが、果たして生産高の面で価値のない土地を得宗家が所領とするであろうか。交通の要衝の視点に絞ってみれば、豊前道が通っていた赤松村や七蔵司村、あるいは豊後道沿いの朴木村や植坪村など近在に候補地は多くある。筆者が前項(Ⅱ)で強調したように、正保郷帳における内成村の生産高の高さは一朝一夕にして出来るものではない。弘安図田帳の頃からすでに一定の生産高があったと考えるほうが合理的ではないかと思われる。また雉城雑誌によれば内成には七仏七社があり鎌倉時代から室町時代にかけて仏教文化が花開いていたが、天正の兵火で滅亡したという。この記事を信ずれば四方2キロ程度の小盆地にそのような数多くの仏教施設があったということは、この地にそれを支える経済的基盤があったということを意味する。米を中心とする生産高があったのである。それを可能にしたのは、一番高いところにある石城寺の豊富な湧水源(イノコ)である。弘安期の内梨子村は交通の要衝という利点に加えて、生産高の高い価値ある所領であったと言えるのではないだろうか。
(Ⅵ)神家(ジンガ・宮座)について
前にも触れたように、内成には大神峰神社を中心とする宮座の組織があった。宮座の構成員の呼称はまちまちで、神人・神願・神元・神官・仕官・地官・侍官というところもあるが、内成では神家(ジンガ)と呼ばれている。筆者は石積みの棚田を造成する共同作業にこの神家の組織が働いたのではないかと推測している。昭和46年、当時別府青山高校の小玉洋美氏は、現地内成の古老からの聞き取り調査をされ、「内成の民俗(1~3)」(大分県地方史)として纏められた。以下は神家についての引用である。
*「古来より神社の祭典は村内十五軒のジンガ(神家)によって執行され、ジンガ以外の者は神事に関与出来なかった。昭和六年頃にみこしかきを青年団が請け合うことになり、ジンガの特権が開放された。ジンガと言い伝えられているのは岩水の岡氏、カイガケの平野氏、御園の平野秀永氏と平野シズカ氏、梶原の園田実氏と園田登氏、山際の平松氏、太郎丸の後藤登氏、勢場の大野秀永氏、石城寺の杉田氏、中の迫の三ヶ尻氏、勢家の大野マモル氏,下畑の生野氏。以上の十五軒である。」(註・勘定すると15軒ではなく13軒)
*「現在では家と家の間に階層は認められないが、古くは屋敷内に小一郎神を祭ってあるジンガと呼ばれる家が十五軒あった。氏神社の祭礼に当たって特権を有していた家々で、同姓の家々の本家筋に当り、系図を所有しているところから系図元と呼ばれる家もある。屋号からみるとオカタ・オモテと呼ばれている家がそれに当る。」
*「ジンガは一般に土地の所有高が多く、中には近年まで名子を所有した家もあった。他村から来た者や名子が独立した場合には、これを<入り百姓>と呼んでいたようである。分家が独立して村入りをしても本家の統制を離れることはあり得なかった。姓を同じくしている家のことをイットウ(一統)と呼んでいるが、本家と分家の関係が浮かび上ってくるのは先祖祭りの時である。座元が回り順になっている一統よりも、固定している一統の方がより明りょうな重層関係をしめしている。本家は系図元とも呼ばれ、正月の中旬から二月にかけて系図祭りをする一統が多い。」
松岡実氏も内成の神家について昭和37年に現地調査をされているが、その記録を「内成・隠山総合調査報告」(昭和57・別府市教育委員会)から引用すると
「大神峰神社には、神家18軒があるが、神家は、神社に奉仕する特定の家で、神事はすべて神官(世襲神官 神尊家・昭和37年当時は岡隼瀬氏)とともに神家の戸主で行ってきた。古くは7日間の精進潔斎はもちろん、祭典中は一週間布団持参で神社に詰めたといわれ、最近までは神輿の奉仕や祭事の世話万端は、神家の特権であった。現在でも祭典中は玄関前に竹を立てシメナワを張っている。神官家の神尊勝男氏によると、神家は神職の階級の一つで神官を補佐する世襲の家柄であろうと言っているが、地区別の神家は次の通りである。
* 勢家(大野守・大野明)*中の迫(三ヶ尻定彦)*太郎丸(後藤東・後藤守永・後藤太郎馬)*岩水(岡長喜・岡成喜・岡隼瀬)*御苑(平野静・平野秀永) *勢場 (大野守) *梶原(杉田定雄・平松豊喜・園田稔・園田峰吉) *鎰掛(平野弘・平野新喜) 以上計18軒」
神家の数が小玉説では15軒(具体的な家の名では13軒を挙げているが)であり、松岡説では18軒と相違があるが、これは現地調査の際の古老たちの記憶違いにもよると思われるが、伝承の風化にも原因があろう。
宮座は近世初期、だいたい15世紀ころより顕著になってくるが、発生はそれよりもはるかに古く、とくに経済的意味での「座」の発生と密接な関係があるらしい。宮座のそもそもの発生の根拠が、神社と自分たちとの関係を誇示することによって、集落内における優先的地位を保持するところにあり、そこに一貫して底流するものは家柄であり、一種の選民意識であるとされている。
内成の宮座が中世に起源をもつものであるかどうかは、今後の検討課題であるが、大神峰神社が天正の兵火から再興された江戸中期以降には確実に存在していて、神事だけではなく村の支配的役割を担ったのであろうと思われる。
(まとめ)
以上みてきたように内成の棚田の開発起源は、農水省のデータよりもさらに古く、少なくとも中世中期以前に遡ると断定しても間違いない。内成には伝承が多く残されている。宝亀年間(770~780)仁聞菩薩が開基したという石上寺(石城寺)や元慶元年(877)、大神比義の苗裔・大神道国が勧請したという大神峰神社、そして七佛七社などが代表的である。これらの伝承は歴史学上史実として認定するわけにはいかないが、この地域に古くから人々が住みついて集落を形成していたことを示唆するものであろう。古代人々は水のあるところを探して定住の地としてきた。内成に住みついた人々は石城寺の豊富な湧水をたくみに利用して、今日にみる見事な棚田を造成してきたのである。