天正の兵火

(はじめに)
石城川村周辺の寺社には「天正の兵火に罹って氓ぶ」と記述をされているものが多い。例示すれば
①雉城雑誌・ 正八幡宮(内成)「、、、、(前略)然ルニ、天正丙戌ノ兵火ニ寺社共二氓ブト云々」
②雉城雑誌・當村七佛七社ノ事(内成)「、、、、(前略)以上七佛寺皆仁聞菩薩ノ建ル処ニシテ、本尊何レモ菩薩自作ナリ。天正丙午ノ乱、兵火ニ亡滅ス。」
③日本地名大辞典・石城川村、「惟福寺」(高崎)「大字高崎にあり。臨済宗妙心寺派。領主高崎宗久の開基に係る。天正の兵火に罹り、寛永年中雲峰真禅師再興し、、、、(後略)」
④挾間町誌・龍祥寺(下市)「後に天正の兵乱で焼失し一時衰退するが、、、、、、、」
⑤挾間町誌・皇産霊神社(北方)「、、、天正十四年の豊薩戦争の兵火に遭い社殿・宝物・縁起を失ったと伝える。」
⑥雉城雑誌・善光寺阿弥陀堂(三船)「天正丙戌ノ乱、薩兇ノ過ル所、寺社民屋ヲ撰バズ悉ク焼掠ス」
⑦雉城雑誌・慶雲山妙蓮寺(黒野)「天正丙戌ノ兵散ニ罹リテ、今ニ堂宇存在ス」

このほかにも、賀来の阿弥陀堂や蛇口村・龍現寺、瀬口村・天満祠なども雉城雑誌に記載があり、庄内、挟間、由布川、石城川、賀来の一帯は薩摩軍の蹂躙に翻弄されたのである。
ここに言う「天正の兵火」とは天正14年秋(1586)に島津軍が豊後に攻め入り、翌15年正月にかけて各地で乱暴狼藉を働いた兵乱のこと指す。豊後一国に大きな傷跡を残した豊薩戦争いわゆる天正の兵火の実態をみてみよう。

(豊薩戦争)
九州の制覇をめぐる大友・島津の抗争は天正六年、日向耳川の直接対決以来激しさを増していたが、宗麟のキリシタン政策に反目する家臣団の不統一から、有力家臣入田らが島津側に内応、大友勢は常に劣勢を余儀なくさせられていた。天正13年10月、豊臣秀吉は大友・島津両氏に和睦・停戦を命じたが島津氏は聞き入れず、大友はこの危機に処して、天正14年3月宗麟自ら病躯をおして高価な手土産をもって上阪し秀吉に救援を懇願した。秀吉はこれをいれて、島津征伐を決し仙石・長宗我部ら四国の兵に救援を命じた。秀吉を軽侮する島津軍は、翌14年10月、島津義久は自ら日向に進み、義久・家久の二人の弟をそれぞれ肥後口・日向口から豊後に侵入させた。
大分郡周辺の状況をみてみると、鶴ケ城(大分市利光)攻略が十二月六日~十二日、戸次川の戦いで大友軍は敗走し大友義統は十二日夜高崎城に入りさらに宇佐郡に退いた。島津家久は十三日に府内(大分)に入る。一方肥後口の島津義久勢は十二月七日未明、庄内町の松ケ尾城を攻め、次いで船ケ尾城(庄内町)を落とし権現岳城(庄内町)の挾間氏を攻めるが難所のため攻めあぐねて数日を過ごしたという。
このように、天正十四年の暮から十五年の正月にかけて府内・挾間・庄内一帯は島津軍の激しい攻撃に曝されていた。とくに敗走した大友の主将・義統が一時高崎山城に逃げたことは、彼を追って島津軍が殺到したことは想像に難くなく、高崎・七蔵司・山口・内成には当然兵火が迫ったであろう。その際住民の拠りどころである寺社が焼き討ちされることは戦場の慣わしである。挾間町周辺の多くの寺社がこの天正の兵乱によって焼失したのは史書の記す通りであったであろう。さてこのようにして亡んだ寺社はいつ再興されたのであろうか。挾間町誌によれば
①1630年(寛永七)高崎・惟福寺が旧道寧寺跡に再興される。
②延宝年中(1673~80)龍祥寺が再興される。
とされている。
一方雉城雑誌によれば内成地区の石城寺は寛文年中(1661~1672)の再興、蓮台寺は延宝5年(1677)、法専寺は寛文年中(1661~1672)の創建とされている。
大神峯神社の再興がいつのことかは記録に見えないが、境内にある石造物・宝永七年(1710)銘の灯篭の存在から推定しておそらく1600年代の後半期に再建されたのであろう。
徳川幕府の成立後、寺社が再興、創建されるのは戦乱の終結による平和の到来、人心の平穏の証拠であろうが、とくに寺院については、宗門改めや寺請け制度等幕府の政策推進のためこの期に再興・創建されたものが多い。ともあれ挾間町周辺の「天正の兵火に亡」んだとされる寺社は、確実に中世末期には存在していたと云えるであろう。
(ルイス・フロイスのみた惨状)
ところで、藤木久志は「雑兵たちの戦場」で、日本の戦国でもっとも悲惨な戦場となったのは天正の島津・大友の戦いにおける豊後であると書いているが、その悲惨な豊後の状況を、宣教師ルイス・フロイスはその著・「日本史」の中で克明に記録している。
フロイスが実際に目にした豊後の人々の悲惨さは
①(薩摩軍が豊後の南郡を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは
(薩摩軍が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致するのが目撃されたことである。これらの人質に対して、彼らは異常なばかりの残虐行為を(あえて)した。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス「日本史」8-173頁)

②薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連行されて、売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、買いとった連中まで養えるわけがなく、彼らをまるで家畜のように、高来(長崎県・島原半島)に連れて行って売り渡した。彼らは豊後の婦人や男女の子供を二束三文で売却した。(売られた)人々の数はおびただしかった。(フロイス「日本史」8-278頁)

③島津軍に捕虜となった人々は、薩摩や肥後に連行された後、羊の群のように、市場を歩かされ、売られていった。彼らの多くは1、2文の価で売却された

④当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国ヘ連行している。(フロイス「日本史」1-322頁)

⑤豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである.彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス[日本史]194頁)

島津軍は豊後南部の地を焼き払い打ち壊して侵攻し、捕虜とした人質に対して異常なほどの残虐行為を行っているが、大友方の応援として駆けつけてくれた豊臣秀吉の武将仙石秀久の軍勢によっても略奪・乱妨行為が行われていたのである。敵ばかりでなく、味方の軍勢により略奪されている豊後の人々の悲惨さがここに浮き彫りにされている。戦国期日本各地の戦場で繰り広げられた残虐・非道の行為は大同小異であろうが、捕虜を外国に売り飛ばすという暴挙の舞台となった豊後の悲惨さは藤木久志ならずとも筆舌に尽し難い。
ポルトガル生まれの宣教師ルイス・フロイス(1532~97)は永禄六年(1563)7月、九州の横瀬浦(長崎県西海町)に上陸してから、慶長二年(1597)5月、長崎で死ぬまで九州や畿内で暮らしていた。彼は日本の戦
国時代末期の30年余りを、実際に日本で生活しながら戦争の実態を目にして
いたのである。日本に関する膨大な通信と著書を後世に残したこのイエズス会の司祭は、宣教師としての偏見を云々されてはいるものの、彼の観察と情報収集の的確さ、詳細さは史料価値として抜群であるとされている。彼の著作「日本史」によって、後世の我々は様々な史実を知ることができる。またフロイス自身が天正四年~七年の間、豊後の国においてじかに布教活動に従事していることも、彼の見聞録を迫力あるものにしていると思う。

フロイスの語る豊後の国の惨状は天下人となった豊臣秀吉も注目するところとなり、以下のような指令を出している。

(イ)豊後で乱妨取りした男女は、島津領内をよく探して、豊後に帰せ。人の売買はいっさい止めよ。(島津義久宛「島津家文書」1-371)

(ロ)豊後の百姓などで、さらわれて肥後に売られた男女や子どもは、すべて豊後に帰せ。去年以来の人の売買は無効とする。(立花・小早川氏宛て「立花文書」411)

(ハ)大唐(中国)・南蛮(ポルトガル)・高麗(朝鮮)へ、日本人を売り渡すことを禁止する。日本国内での売買も停止せよ。(バテレン追放令、神宮文庫蔵「御朱印師職古格」)

このように秀吉を慌てさせるほどに、豊後の国の「乱妨取り」とも「乱取」ともいわれた大がかりな奴隷狩りと人身売買はひどかったのである。さらに敷衍すれば、宗麟の嫡子で凡庸な大友義統は朝鮮侵略の在陣中に敵前逃亡の失態を口実に、秀吉から豊後を改易され秀吉の直轄領とされた。文禄二年(1593)5月、天正の兵火の5年後のことである。島津との激戦に始まり、秀吉の大軍による制圧、朝鮮侵略、大友氏改易と豊後は短期間のうちに三度の惨禍を味わう羽目になり、「百姓逃走」が各地に広がり全土は壊滅的な状況に陥った。上記(ロ)は人返令と呼ばれ各大名に一斉に出されているが、秀吉の危機感があからさまに示されている。蛇足ながら付言すると、秀吉は文禄二年の検地終了後、豊後の国を小藩に分割した。大友勢力の復活を警戒し、小藩割拠による地方勢力の分断と、相互牽制を狙ってのことであろう。後を継いだ家康も秀吉の政策を踏襲し、かつ日田に天領を置き西国の諸大名を監視させた。「小藩分立」は豊後の歴史に大きな烙印を残した。郷土の発展を阻害し、「赤猫根性」と揶揄される郷土人の第二の天性を馴致した。古代には「上国」とされていた豊後は、この期古川古松軒によって「下国」と蔑まされる為体で豊後の長い、苛酷な冬の時代がここにはじまるわけである。

フロイスはまた「薩摩軍は、万事が思惑どうりに運ぶのをみて、通過する南郡の地、その他のところを焼き払い、打ちこわし蹂躙し始めた。彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された」と記している。寺社への放火などは薩摩軍においては日常茶飯事のことであったであろう。石城川村周辺にみる「天正の兵火に亡ぶ」という実態はこのフロイスの記述で充分に証明されるであろう。


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豊後國志の原典を探る

豊後國志は享和三年(1803)、竹田岡藩士・唐橋世済によって編纂された豊後の国の地誌である。
江戸時代の300年間に、日本の各地ではその土地の由来や人情・物産を記録する書物、すなわち地誌がつくられた。領民支配、換言すれば牧民の用具に必要だからである。幕府は三百諸侯が統べる領地・六十余州を知るために、地誌編纂を認め奨めた。しかしながら幕府の奨励にもかかわらず諸侯による藩撰地誌は江戸時代を通じて30種に満たないのが実情である。その中にあって豊後國志は肥後國志とならぶ傑作であるといわれている。
この豊後國志がどのようにして編纂されたのかをみてみよう。以下は主として「豊後国志編纂始末」(今村孝次著)と「豊後国志考」(後藤均平著)に拠る。
筆頭選者・唐橋世済(君山)は江戸の人、天明四年(1784)49歳の時豊後岡藩の侍医となり、寛政十年(1798)藩主中川久持の命を受けて編纂を始めた。その補助役は田能村行蔵(竹田)と伊藤文蔵(鏡河)であった。國志編纂の事業の推移を追ってみると、藩主命の翌年寛政十一年から実地踏査が始った。時に君山64歳、文蔵48歳、行蔵は22歳であった。この年4月、ひと月をかけて岡領内を検分した。続いて同年8月、豊後の幕府直轄地(天領)並びに隣接諸藩の領内踏査を始めた。所謂小藩分立の上、日田、別府の天領が介在し他国領も点在するまさに犬牙錯綜の複雑な領分配置の中、如何に幕命の名分があったとはいえ、他藩領内の踏査は容易ならざる作業であった。一行は八月三日、岡を発ち、日田・森・杵築を経て、国東郡を踏査ののち、九月十五日岡に帰着した。つづいて同月末から、庄内・由布院・府内・乙津・高田・臼杵・佐伯を巡歴して十一月二十三日岡に帰着した。これで豊後国一円の文献上、知見上の資料とその整理が整った訳であるが、君山はなお、北接の豊前各地の実地踏査の要を感じた。翌寛政十二年八月、岡を出立し別府・立石を経て宇佐に到着、中津・小倉・田川を巡って九月十五日、岡に戻った。この年朧月、唐橋君山は病没し後事は伊藤、田能村両人に託され脱稿の途を進め、享和三年十一月、晦日に完成をみた。
このようにして完成した豊後國志の記事はどのようにして出来たのであろうか。
おそらく実地踏査の主目的は各地の資料、文献の収集にあったであろう。集められた資料、文献は取捨選択されて簡潔な漢文に表されたのである。

(石城川村の二つの寺)
これを石城川村に残る二つの寺院の縁起・再興記によって検証してみよう。
まず、高崎の惟福寺について調べてみよう。
豊後國志の記事は
「在賀来郷高崎。宮苑二村之間。此地旧道寧寺廃址。惟福在其東北半里許。大友氏臣高崎宗傳。及宗久者。並崇敬禅法。於私邑営寺。名惟福。不知其開祖。寛永初。雲峯眞禅師。移寺於道寧旧址。興其廃。因為中興。尋析室悦禅師。重修営焉。正保中。悦公又興阿南大龍永慶之廃。」とある。
惟福寺に伝わる「吉祥山中興記」は、大歳丁丑元禄十年三月下澣(1697年3月下旬)に書かれたとあるがそれによれば
「扶桑国鎮西路豊之後州大分郡吉祥山惟福寺者境属高崎地接宮苑而鞠其挿艸之由耒歳月相運不詳之権輿之為主者亦其姓名矣故老之言曰此地者本道寧之地也合両寺而成一寺舊惟福之境者在居之東北半里許蕨地高峻而林□尤美先是有高崎宗傳者其子玄宗久敷代仕吠友嘗以此地為食邑矣蕨祖宗信佛学擁護當山故食観方充僧侶、、、(略)寛永庚午之年實宗眞公據主位公者本州早見人也」

また古刹として名高い石城寺(石上寺)について、豊後國志は
「石上寺
   在笠和郷内成村。最古刹。安観音仏像一躯。蓋仁聞所造。
   堂後石崖出霊泉。大旱雨澇無増減。傳曰仁聞律師加持水。」
と簡潔に記してある。これに対し、明和七年(1770)加納山仏海和尚が著した「梨洞山石城寺之記」によれば
「豊之後州府城西南三十里程為内成郷ゞ之西北有一巨山名曰梨洞山獄秀一耻凝蔚冠羣山巉巖竒絶考樹深邃寺居其中央是曰石城練若乃人聞菩薩之所創也十一面観世音大士亦聞老親手造刻也而宝亀延暦之間聞老禅坐茲山住大三味慈化救済古道場也故老相傳此地往昔欠水郷民恒以為患聞老憐之便起以錫卓地清水随而涌出矣(以下略)」

唐橋等の地誌編纂の少なくとも神社・仏寺の項の原典は、このように各地に残る由緒や縁起であってこれらの漢文をより簡潔化したものであると言えよう。

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石城寺の歴史

豊後国志という江戸時代の歴史書によれば、石城寺は宝亀年間、光仁天皇の時代、西暦770年頃に仁聞菩薩によって開基されたと言われておりまして、1200年以上の長い歴史を持つお寺であります。
当時は「石上寺」と書いてせきじょうじと呼んでいたようです。
仁聞菩薩は国東半島の六郷満山を開いたといわれ、各地におおくの仏像や磨崖仏を残しています。この地を訪れた仁聞菩薩は入船屋敷に住む老夫婦が飲料水不足で困っていると聞き、杖で岩根を穿ち清泉を湧出させたという。また観音木像を作り之を安置するために石上寺を建てたがこれが現在の本尊の十一面観世音菩薩であります。
このお寺には七つの不思議なことがありまして、そのいずれもが水に関係することで石城寺の七奇瑞と呼んでおります。
まずひとつは、この下にあります湧水口にあるとき大石が落ちて水量を等分したこと。
二つ目は龍門カ滝に表わし四十八本の井を堀り下に流れるほど増えること。
三は蛭が人に吸い付かないこと 
四には、川のものすなわち河童のことですが、河童が人を襲わないこと。
五番目は婦人が妊娠して死ぬことがないこと。
六は火事になっても類焼がない。
最後の七つ目は青梅が年中あること。以上の七つです。
この石城寺の湧き水は、日照りが続いても涸れず、大雨でも水が濁らない、いつもおなじ量がこんこんと湧き出ている誠に不思議な湧水でありまして、大分川の支流、石城川の源でもありますが、なによりも皆さんが見てこられました棚田の水源として豊な稔りをこの内成にもたらしてきました。
石城寺は豊後西国三十三ヶ所の第30番札所になっておりますが、その御詠歌は
   争いし 水を分けぬる石城寺 谷あい深き慈悲の流れを
と申しまして、ここでも仁聞菩薩の有難い水のことが詠われていまして、まさにこの寺は水の寺というにふさわしいお寺であります
石城寺は現在では臨済宗東福寺派の禅宗ですが、もともとは天台宗でした。
おそらく天台宗の修行場として建てられたのではないかと思われます。その後は衰退していましたが、寛文期に雲清禅師が再興しまして、そのときから禅宗になったようです。
江戸時代の中期に加納山佛海という人が「石城寺縁起」を書いていますが、このときに寺の字が現在の「石城寺」になったようです。
境内にあります文化財をご紹介いたしますと、これは宝筐印塔(ほうきょういんとう)と申しましてお経を納めた供養塔です。無銘ですが室町時代の作といわれています。
こちらの灯篭は元文二年(1737)の銘があります。このほかに、キリシタン墓が六基、キリシタン塔が八基あります。
  
以上でご説明を終わります。ご参拝ありがとうございました。


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七蔵司か七曾子か

旧石城川村大字ナナゾウシには「七蔵司」の字が当てられている。
江戸時代に書かれた文書によれば、「七曾子」「七曹司」「七蔵子」「七草子」とも書かれていて多様であり、七蔵司と書くようになったのはどうも明治維新以降のようである。資料によって七曾子から七蔵司に変わる経緯を見てみよう。

①大神峰神社縁起  永享元年(1429)
「後花園天皇永享元年六月十一日、久我野ノ原ニ行幸始ル。行幸列ノ次第、
先一番 三宮七曾子大野民部 白木ノ浜ヨリ潮ヲ汲是ヲ以テ道祓」
<大神峰神社縁起の抜粋である。この縁起そのものの史料価値は高くない。おそらく永享元年よりもだいぶん後に書かれたものであろうが、当時は七曾子といわれていたことがわかる>

②豊後国郷帳(正保郷帳)・正保四年(1647)   七曾子村
③御取ヶ郷帳 明暦三年(1657)         七曾子村
④元禄郷帳  元禄十四年(1701)        七曾子村
⑤天保郷帳  天保五年(1834)         七曾子村
⑥旧高旧領取調帳・明治元年(1868)       七曾子村

<江戸時代の石高帳、重要な史料である。正保以来一貫して七曾子村である>

⑦府内藩記録
享保三年(1718) 七草子新堤土手普請の見積書差出
享保六年(1721) 七草子後ヶ迫小堤破損の応急修理申請
享保六年(1721) 七草子堤見分の結果土台工事をなすに決す

<府内藩記録は大給松平氏が府内に入部して以後の公式記録であり史料価値は高い。内成村や来鉢村、高崎村の記事が多いが、ナナゾウシ村の記事が少ない。七草子と書かれているのは、あるいは地元からの申請によるのかもしれない。>

⑧豊府略記(江戸時代後期)
「七曾子村 山神社 内成七社之内三之宮 往古内成村之内新屋敷にあり」

<豊府略記は原本も著者も判明せず公刊されたものもなく只数種の伝写本によって伝承されているため誤、脱、異漏が甚だ多いとされているが、豊後府内藩管内の貴重な旧記でありこの記事は①の大神峰神社縁起と関連がある>

⑨雉城雑誌(幕末)
   太郎塚       七曾子村ニアリ
   観海山東蓮寺    七蔵司村
  (内成村)七社    七蔵子
  (内成村)七佛七社  観開山東蓮寺  七曾子邑ニアリ

<雉城雑誌は府内藩領全体にわたる地誌で、天保年間(1830~1844)府内藩儒阿部淡斎の編述。豊府指南、豊府聞書、豊後国志などを引用しつつ領内の神社、仏閣、名所旧跡などの由来、伝承を詳細に記述している。諸書からの引用が多いため、地名などの表示は統一されてなく、マチマチである。七蔵司という字が初めて出てくる。>

⑩旧藩神社明細牒(明治二年)         七蔵司村
⑪明治八年、山口村と合併して七蔵司村となる
⑫神社合併願 (明治九年一月)        七蔵司村
⑬明治二十二年、六村合併して石城川村が成立、大字七蔵司 となる 

<幕末から明治初期にかけて、ナナゾウシに当てる漢字を七曾子や七草子よりも、重厚感のある七蔵司としたのではあるまいか。明治八年には七蔵司村が合併により成立、以後今日に至るまで大字名は七蔵司で続いている>

(七曾子の地名)
古代豊後国の国府があったと推定されている大分市古国府・羽屋地区の小字に、七曾子・上七曾子の地名がある。豊後国府推定地周辺の発掘調査(讃岐和夫、大分県地方史117号42P)によれば、発掘調査の結果「古国府地域には中世の十三世紀にかけての遺跡があったということだけである」と結論付けている。
豊後国府があったという確証は得られなかったが、中世の地名として「七曾子」が確認されたことは、今後石城川村七曾子の語源を解明する上で注目される。

(ナナゾウシの語源)
「ナナゾウシ」は難解な地名であり、その意味、語源は不明である。
 ある説によれば、ナナはナナオ(斜尾)の略、ゾウシはソウレ(焼畑)の転訛で、山麓の焼畑を意味するという。いずれにしても地形に因む自然地名であろうが、いまは意味不明というしかない。


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内成の地名伝説

内成の地名語源として「唐土龍門カ滝四十八口の内成」の謂いであるとする伝説が広く伝わっている。この伝説の出典は、石城寺の僧・加納山佛海が明和七年(1770)に著わした「梨洞山石城寺略縁起」によると思われる。
同縁起によれば
「(前略) 仁聞大菩薩夫ヨリ当山ニ登ラセ給ヒ、大石ノ上ニテ三七日ヶ間座禅行ヲ成シメ、満スル朝東之空ニ御声高ク万民ヲ救ンタメ、唐土龍門カ滝四十八口之内一口此地ニ与フヘシトテ、(中略)菩薩亦々仰ニハ以後七ツノ妙アラン、是亦衆生ヲ助ケンガタメ此水ハ唐土龍門カ滝四十八口ノ壱口此地ニ与フベシトテ、観世音菩薩御仰ナレバ、此水戴ク時ハ南無大慈大悲ノ観世音菩薩ト唱へ飲メバ悪事災難万病ヲ遁ルルナリト仰ケリ 虚空ヲサシテ失サセ給、当所内成トハ唐土龍門カ滝四拾八口ノ内成ト申也」と記している。
その後幕末に唐橋世斎が編集した「豊後国志」には同略記を写して「此邑ヲ内成ト呼ブモ、唐土龍門ノ滝四十八口ノ内ナリト云縁也トゾ云々。」とある。
おそらく佛海和尚は水利権をもつ石城寺の権威を誇示するために、略縁起を記したのであろうが、同時に内成の地名伝説も地元に定着したのであろう。
ところで、龍門の故事については渡来僧・蘭渓道隆の存在が欠かせない。

(蘭渓道隆と龍門の滝)
鎌倉幕府の求めに応じて来日し、純粋な禅宗の発展に寄与した蘭渓道隆の略伝は、世界大百科事典によれば
「蘭渓道隆 1213~78 鎌倉建長寺の開山、臨済宗建長寺派の開祖。1246年(寛元4)中国南宋より来日し、翌年入京して泉桶寺来迎院に住し、ついで鎌倉におもむいて寿福寺、常楽寺にいたが、1253年(建長5)北条時頼が建長寺を創立するに及んで請ぜられて開山となった。以来、時頼、時宗の帰依を受けることが厚かった。1265年(文永2)京都建仁寺に住し、後嵯峨上皇の尊崇を受けた。」(古田紹欽)となる。
その道隆と豊後のかかわりについて、大分県史には
「道隆は来日後上京の途中、豊後を通り玖珠川の支流松木川の瀑布を見て、中国河南省龍門に似ているところから龍門滝と名づけ龍門寺を建てたという。」
(中世編 Ⅰ P494)   という記述があるが、これは「豊鐘善名録」に拠っている。
豊後森藩の僧・河野彦契が寛保二年(1742)に著わした「豊鐘善名録」は、鎌倉時代の仏教書、元亨釈書に倣った高僧列伝の体裁であるが、それによると
「豊後州龍門寺蘭渓禅師諡道隆姓冉氏宋国西蜀涪江人年十三剃度干成都大慈寺遊学講肆弃之入浙見範無準沖絶簡北(中略)淳祐六年乗商船著博多暫止円覚寺即本朝寛元四年丙午也師将入京城路歴豊後跨球珠川東源偶観瀑布清絶山勢奇秀拊手嘆曰宛類支那河南龍門遂一宇榜曰龍門有題瀑布(後略)」

寛元4年(1246)、蘭渓道隆が上京の途次豊後を通り龍門寺を建立したとの故事は、おそらく仏僧の間では周知のことであったかも知れないが、佛海が石城寺略縁起を著わす30年前に出たこの「豊鐘善名録」を参考にしたであろうことは想像に難くない。

(内成の地名語源)
弘安八年(1285)の<豊後国図田帳>に内成は、<内梨畑>として歴史史料上初めて出てくるが、室町時代には永和元年(1375)九月の足利義満下文に<内梨子村>と表現されている。江戸時代になって、正保4年(1647)の豊後国郷帳(正保郷帳)で初めて内成村と表現されている。当初は<内梨(うちなし)>と呼ばれていたが、室町時代~江戸時代初期の間に<内成(うちなり)>と変化したのである。内梨を語源的に解釈すれば、内(うち)は、内側の意で特に<入り込んだ地形・山谷の小平地>をあらわし、梨(なし)は、ナシル(擦)の語源で<こすられたような地形>、すなわち崩壊地形を示す自然地名であると筆者は考えている。石城寺から見渡す棚田の見事な景観はまさに、<内梨>であり、地形にマッチした地名であることが実感されよう。
佛海和尚が略縁起に謂うように、<光仁天皇ノ御宇>すなわち宝亀年間(770~780)の昔からすでに<内成>と呼んでいたとすれば、鎌倉時代や室町時代に<内梨畑>や<内梨子村>と書かれることはないであろう。地名伝説はその地名の本来の意味がわからなくなった時、適当な漢字をあて高僧や貴族の事跡に牽強付会して説かれることが多い。<唐土龍門ガ滝四十八口ノ内成>はまさにその典型的な例であると思う。おそらく内成の地名伝説は江戸時代中期、加納山佛海和尚の<石城寺略縁起>によって創作され、流布して今日に至っているといって間違いないであろう。


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石城川村と古代の道

 
古代の石城川村域は「豊後道」と「豊前道」の二つの官道に挟まれた交通の要衝であった。七世紀の中頃に成立した律令国家体制のもとで、官道は大宰府を通じて都に直結し、官人の往来、公文書の逓送や緊急連絡、租、庸、調の運搬、軍事行動など中央と地方との通信・交通制度としての本来の役割のほか文化や情報の伝播にも大きな影響を与えた。官道周辺の人々は先進の文物に触れる機会には恵まれたが、反面それだけにお上、官による支配、把握度も高くいろいろな負担を強いられたことであろう。この項では古代の道と石城川村のかかわりについてみてみよう。

そもそも道はどのようにしてできたのであろうか。山を越え谷を渡って延びる最初の踏み跡を、誰がどのようにつけたのであろうか。自然の通路は、通りやすい所を人が通っているうちにおのずからできた踏み分け道に始まる。藤森栄一氏によれば「最初は<けものみち>である。狩猟者が獲物を得るために、それをたどった。その踏み跡がやがて道になる。けものたちは、キツネ、ウサギ、クマなどというように、実に正確に彼ら自身の共有路を歩く。危急が彼らに迫っても、めったなことには、それ道を彼らはしない。猟をする人は、その<けもの道>をたどる」(かもしかみち、学生舎刊) 狩猟者の踏み跡を、次に黒曜石や土器などを担いだ人が通った。はじめの道はこうして「集落をつなぐ橋」のようにして、生活のための歩く踏み跡であった。邪馬台国論争の原典の一つとして有名な「魏志倭人伝」は三世紀頃、弥生時代の日本の風俗を書いているが、対馬国について
 「土地山険多深林道路如禽鹿径」(山険しく深林多く、道路は禽鹿の径のごとし)と記述し、魏の使者を案内すべき道ですら、まさに<けものみち>と変らない状態であったことを明らかにしている。九州に上陸した末盧国でも
 「草木茂盛行不見前人」(草木茂盛し、行くに前人を見ず)という有様であって、当時は全国的に日本の道路はほぼこのような状態であったろう。温暖多雨のわが国の気候では絶えざる維持・補修の作業がなければ、たちまち草木に覆われてしまうからである。国家権力が車馬の通行ができるほどの道路を用意する必要が生じたのは、さきに触れたように、西暦645年大化の改新によって成立した律令国家体制以後のことである。大化二年正月に孝徳天皇が出した有名な改新詔には「初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、山河を定めよ」と述べ、ついで「凡そ駅馬・伝馬を給うは、皆、鈴・伝符の剋の数に依れ。」と指示しており、ここに駅伝制が始められたことになる。都から、東北日本には東海・東山・北陸の三道が、西南日本には山陰・山陽・南海が通じ、九州では大宰府を中心に西海道の駅路が放射状に広がり、九州を一周していた。
大宰府から各国府に向けて六方に放射する形態は① 壱岐・対馬道 ② 肥前道 ③ 肥後・薩摩道 ④ 豊後・日向道 ⑤ 田河道 ⑥ 大宰府道(大路) であり、支路とされるものに、豊前道(豊前~豊後の国府間の道)、阿蘇路、熊襲路があった。
大宰府から豊後国府に通じる「豊後道」は、石井駅(日田)-荒田駅(玖珠)-由布駅(由布院)-高坂駅(豊後国府)であったが、ここでの問題は由布駅から高坂駅までどのような経路、ルートを辿ったかである。奈良女子大の戸祭由美夫氏は由布駅の所在について「湯布院町大字川上の平地部は少なくとも近世において大分・玖珠・速見諸郡の中心部への交通の結節点として重要な位置を占めていたのであって、その交通上の重要性は古代にまで遡りえようから、駅が大字川上の平地部、換言すれば由布院盆地の東部に設けられていた可能性はきわめて高い」(古代の交通路Ⅳ)とのべる。由布駅から先の経路については「<正保絵図>によれば大分郡への接続ルートは揑山越えを主幹線とする。また、後述するように既に南北朝期には由布院から大分郡挾間を経て国府・大友館に至るルートも確認できる。こうした点からすれば、揑山越えのルートは恐らく古代官道の経路を中世から近世へと引き継いだものと想定できるのである。」(大分県文化財調査報告書第57輯、昭和57年刊)とする見解に同意したい。揑山からは、朴木~赤野~黒野~賀来~高坂駅(国府)のルートであったと考えられる。豊後道のルートをこのように考えると、わが石城川域とは由布川を挟んでまさに指呼の間にあったのである。
一方、「豊前道」は豊前国府~豊後国府間の官道の名称であるが、同時にまた山陽道の到津駅(小倉)から分かれて豊前、豊後、日向、大隈の各国府を結ぶ西海道東路の一部分でもあった。大分県内の駅は下毛駅(中津)-宇佐駅―安覆駅(安心院)-長湯駅(別府)-高坂駅(国府)の順路となるが、長湯駅からはどのような経路をとったのであろうか。前出の戸祭由美夫氏は長湯駅の所在地を「別府市の朝見川流域付近にあったと考えるべきであろう。」とした上で、「高坂駅・豊後国府より別府市内の温泉地帯へ抜ける古代の西海道についてかんがえてみると、高崎山北麓の海岸沿いは江戸時代でさえ交通が困難であったから、銭亀峠を越えて高崎山の南西麓を朝見川河口付近に出るルートが使われていたと推定される。」(古代の交通路Ⅳ、後掲資料参照)とのべる。また元別府市立図書館長で郷土史家の安部巌氏は「江戸時代に於ける別府の交通」(大分県地方史第4号)のなかで、赤松峠を越す理由について、「奈良・平安の頃栄え政治の中心であった古国府から、日出を経て宇佐方面に通ずるには、ここ(赤松峠)を通過することが最短距離であった。」と書いている。
この最短距離という語は古代の道を考える上で大きな意味をもっている。国学院大学の木下良氏は「道と駅」(大巧社、1998年刊)に、道路公団で高速道路の計画・建設に携わっていた武部健一氏の論文を引用して「古代道路と高速道路に似通った点が多い、古代駅路も現代の高速道路も目的地に最短距離で到達するように計画的に路線を定めるので、おのずから通過地の地形条件に合って共通した路線をとることになるのである。」と述べ、さらに武部氏の「古代の駅と高速道路のインターチェンジが、ほぼ同位置にあることが多い。」との興味深い指摘を紹介した上で、「古代駅路と現在の高速道路の路線が共通するのは、ともに既存の集落を通ることなく独自のサービス施設を置いて、目的地へ最短距離をとるように路線を決定するので、おのずから似通ったものになるのである。」と書いている。
このように最短距離を結ぶことがルート決定上重要視されていたことが明白になると、西海道(豊前道)における銭亀峠越えは説得力をもってくるし、豊後道における揑山越えもまた同様である。私見では別府、朝見川河口付近の「長湯駅」から赤松~銭亀峠~七曾子~三船~黒野を通り、黒野で豊後道に合流したのであろうと推定している。大分市史には「赤松越えというのは今の銭亀峠であり、峠を下って宮苑、賀来、荏隈をたどり府内に至るコースが古代から豊前との往還路であった。」との記載があり、これにもとづいて大分市賀来、国分寺跡にある「大分市歴史資料館」の掲示地図は書かれている。銭亀峠越えは私見と同様であるが、「豊後道」との合流地点を賀来付近に想定しているらしい。もしそうだとすれば、銭亀峠~七蔵司~高崎~宮苑~賀来のルートと思われるが、さらには銭亀峠~高崎~宮苑~賀来という現県道中村―別府線のルートも考えられる。西海道(豊前道)の経路をこのように考えると、いずれのルートも石城川域を古代の官道がまさに縦断していたことになり、文字通り交通の要衝であり、豊後国の中では都に直結した先進の地域であったといいうるのである。
 

 


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石城川村のなりたち

私たちの郷土、石城川村はいつ、どのようにして成立したのであろうか、幕末から明治にかけての慌しくも激しい歴史の流れのなかで簡単にみてみよう。
 
明治維新政府の中央集権化の動きは、明治4年7月14日の廃藩置県、5年1月29日戸籍簿編成(いわゆる壬申戸籍)、同5年12月1日徴兵令公布、8年1月13日平民に氏称すべきを命じる(平民苗字必称義務令)等の一連の施策によって富国強兵策をともなって進められていくが、地方の側から之を見てみると、明治4年11月14日に成立した大分県は同5年3月大区小区を制定、管内を八大区に分け、以前の区画を全廃して新しく小区を設置した。大分郡は第三大区とされ管下は27小区に分けられた。それによると二十二小区(九村)、来鉢村、宮苑村、高崎村、山口村、七蔵司村、平床村、田代村、中畑村、内成村  (註 新村が脱漏している、十村が正しい)
となっておりここに石城川村の原型をみることができる。
明治8年3月13日町村合併が行われ、新村は高崎村に、山口村は七蔵司村に,中畑村,平床村は田代村に統合され九村(正しくは十村)は六村になった。
明治21年4月、市制、町村制が公布され、これにもとづいて大分県では翌22年3月「町村区域名称」を定め町村合併を布達、来鉢村他5村を「石城川村」とした。この際、これまでの村名は大字として残された。旧22小区全体がそのまま「石城川村」となったのは全国的にも珍しい例である。

このようにして成立した「石城川村」は 日本地名大辞典(角川,昭和55年刊)によれば石城川村(挾間町)
<近代>明治22年~昭和29年の大分郡の自治体名。大分川支流石城川・ 由布川流域に位置する。来鉢・高崎・七蔵司・宮苑・内成・田代の6ヶ村が合併して成立。大字は旧村名を継承。
役場を大字来鉢に設置。明治22年の戸数598・人口3,280。物産は粟・甘藷・繭・シイタケ・薪炭など。
昭和23年大字来鉢字丸田を由布川村に編入。同29年由布川村・谷村とともに挾間村に合併。各大字は合併後も同村の大字として存続。  
と記述されている。また日本地名大辞典(第4巻)<日本書房、昭和13年刊>には石城川村大分県豊後国大分郡の北部。別府市の南に接し、東北は八幡村を隔てて別府湾に近し。北境に400~450米程度の山地東西に連互し南方へ緩傾斜し、南部に東西に狭き谷開く。東南部に南境に沿ひて大分川の支流流れ、1キロ余東南にて本流に会し、約九キロにて別府湾に注ぐ。低地は田畑よく拓け米・麦・粟・甘藷を産し、また養蚕行われて繭を出す。山地よりは椎茸・薪炭を産す。南部を東西に村道走り、中部より別府市へ通ずるものあれど交通概して不便なり。大字高崎の四極山上には高崎山城址あり。大友氏の拠りし処にして、正平13年菊池武光の来り攻めんとするや、大いに守備を厳にす。同16年9月、九州探題斯波氏経、武光と長者原に戦ひて敗れ、當城に拠る。
10月武光来り攻め、20年氏経支え得ずして和す。天正14年12月豊臣秀吉の島津義久を討つ時、京軍の部将大友某敗れて此城に遁る。時に島津義久陣を府中に移すに及び大友義統またこれより進む能はず、遂に城を開きて竜王に走る。
[千代丸古墳]指定史蹟。大字宮苑千代丸の三ヶ尻方宅地内にあり。石城川と呼ぶ小川に臨む低台地の縁に略々南北の方向に築かれたる前方後円墳。
著しく原形を損ずるも全長約37米あり。後円部には略東面し石室開口す。
玄室は長方形にて断面梯形を呈し、石壁に赤色の塗抹の痕を存し、奥壁より水平に突出せる棚石の前面には線彫りにて合掌形屋根の多数の家屋を表はし、且つ人物・動物等を配せる一種の風景画とも見るべきもの彫刻さる。
[惟福寺]大字高崎にあり。臨済宗妙心寺派。領主高崎宗久の開基に係る。
天正の兵火に罹り、寛永年中雲峰真禅師再興し、正保年中に至り析室悦禅師更に之を重興す。
と記録されている。

一方当事者である石城川村関係者は自村をどのように認識していたのであろうか。明治45年1月16日刊の「石城川村々是」の現況ノ部、総論の記述をみてみよう。
「本村ハ大分郡ノ北方ニ僻在シ、四囲山脈起伏シ、平地甚ダ少シ。北由布
川ハ西ヨリ東ニ流レ、中央ニ石城寺川アリ。亦、西ヨリ東ニ流レ、大字来鉢ノ東端ニテ両川相合シ賀来川トナル。夫レヨリ又、東ニ流出シテ大分川ニ入ル。東西凡参里、南北凡壱里、総面積千五百九拾参町八反参畝弐拾弐歩ヲ有ス。賀来川以北ヲ大字宮苑トシ、大字高崎モ南ハ賀来川ニ添ヒ、北ニ八幡村四極山、及ビ速見郡別府町大字浜脇字銭亀峠ニ境ス。大字来鉢、大字田代ハ石城寺川ニ跨リ、南ニ北由布川ヲ境ス。大字内成ハ南ニ北由布
川ヲ境シ、西北ハ速見郡別府町ニ境ス。石城寺川ハ同字ノ古刹ナル石城寺ヨリ流出セシニ依リ此名アリ。同字ノ西方ヨリ同字ノ中央ヲ流ル。大字来鉢字丸田ハ北由布川ノ南ニアリ。其外、全村ノ南ハ北由布川、賀来川等ヲ隔テ由布川村ニ境ス。地味ハ概ネ肥沃ニシテ、耕地、山林、原野共ニ上層ハ褐色粘土ノ所多シ。気候ハ大分市ヲ距ル弐里余ナルヲ以テ大差ナキモ、気温梢寒冷ニシテ、凡極暑ニ在リテハ摂氏三十四度乃至三十五度、極寒ニ
至リテハ零下一度乃至三度ナリ。交通ハ甚ダ不便ニシテ、大字田代ノ一部分ト大字来鉢、大字高崎、大字宮苑チニハ、九尺巾ノ村道ヲ通シ、車馬ノ通行アルモ、大字七蔵司、大字内成ハ里道僅ニ駄馬ヲ通行セシムルモノアルノミナリ。尤モ速見郡別府町ニ至ル僅ニ壱里余ナルモ、是亦険悪ナル里道ナリ。人情ハ一般ニ礼節ヲ重ジ、質朴ノ風アリト雖モ、社会ノ風潮ニ襲ハレ、梢軽薄ニ傾キ、奢侈ニ浸洗シツツアルノ虞ナキ能ハズ。敬神ノ念、甚ダ深ク、仏教ノ感化、亦偉大ニシテ、社寺保存ノ方法、確定シ廃頽ノ傾ナシ。神社ハ村社六、無格社二ニシテ、淫祠ニ迷信スルモノナシ。寺院ハ臨済宗唯福寺、法泉寺、石城寺、妙楽寺、真宗ハ専徳寺、金光寺、徳台寺ノ八ケ寺アリ。教法各異ナリト雖モ親厚ニシテ、敵視スル等ノ挙アルヲ認メズ。灌漑ハ北由布川ノ給水ヲ以テ、大字内成ノ一部、大字田代全部、大字来鉢ノ大部分ヲ灌漑シ、大字内成ノ大部分ト大字来鉢ノ一部分ハ石城寺川ノ給水ヲ仰ギ、大字宮苑ハ大字高崎ヨリ流レシ小谷ノ給水ヲ以テシ、同字ノ一部ハ初瀬井路ヲ灌キ、其余ハ溜池ノ設ケアリテ給水ヲナス。溜池ノ灌漑区域ヲ除クノ外、旱害ヲ蒙ムルコトナシ。耕地ハ本村全面積ノ約三割ニ当リ、四百八拾七町八反三畝弐拾八歩ニシテ、其他ハ重ニ山林・原野ニ属スヲ以テ、林野ニ富メルコト伺フニ足ルベシ。地勢・気候・風土・人情等ノ状態ヨリ農業主体ノ土地タルコトハ、争フベカラザル実況ニシテ、農事ノ改良発達ヲ図リ、副産業ノ奨励ニ努メテ、資力ノ充実ヲ期スルハ、本村経営ノ主眼タリ。」と総括的に述べられている。

ところで村名「石城川村」の由来はどうであろうか。「村是」の文中に頻出する石城寺川がポイントで、最古刹で古くは石上寺といわれた石城寺に水源を発するこの川が、村域の中央を流れているところから村名にしたのであろう。また大日本地名辞書(吉田東伍著)によれば、四極山(高崎山)を石城寺山と記載してあるが、正しくは小鹿山のことを指す。当村近辺では以前から石城寺の名は普遍的であったのであろうか。
上記のように旧幕時代、府内藩の宮苑、高崎、新村、山口、七蔵司、来鉢、中畑、平床、田代、内成の十村を母体にして「石城川村」は成立した。


  
 

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内成の棚田について

( はじめに)
石城寺を頂点として広がる内成の棚田は、1999年農水省の「日本の棚田百選」に選ばれた。農水省・農村環境整備センターが公表したデータによると「平均勾配 1/10・面積 41,7ha ・枚数1000枚 ・法面構造 石・水源 河川 ・開発起源 近世」となっている。大分県からは内成のほかに隣村の挟間町詰・由布川奥詰棚田など5箇所が選ばれているが、百選134ヶ所の中でも五番目の面積であり、規模・景観のいずれをみても県内はもちろん九州屈指の棚田であるといって間違いない。中島峰広氏は「すべてが一望できる範囲に収まっているという点からいえば日本でも1~2を争う規模といえる。」と評している。棚田は日本のピラミッドともいわれる歴史的文化遺産として、また日本の原風景とも言われる美しい景観に対する郷愁として近時ますます関心を高めているが、本稿では棚田の開発起源を探ることによって、内成の歴史の一端を検証してみたい。

(水源)
石城寺の麓からの湧水が水源である。豊後国志によればこの湧水は
「石上寺在笠和郷内成村。最古刹。安観音佛像一躯。蓋仁聞所造。堂後石崖出霊泉。大旱雨漏無増減。傳曰仁聞律師加持水。」とあり、仁聞菩薩の霊験譚とともに古くからの湧水源として伝えられている。
また雉城雑誌には石城寺七奇の一つとして
「一 水口ニ虚空ヨリ石落、両川ニ堰キ分ル事。寛治二年此事アリ。」と記し、大石が寛治二年(1088年)に落ちたとしている。里人はこの大石が水の流れを左右等量に分けているので「水分石」と呼んでいる。石城寺は文化年間(1804~17)に札所に指定された記録があるが、その御詠歌は
「あらそいし みずをわけぬる せきじょうじ たにあいふかき じひのながれを」である。
この歌の中に、一説にいう里人たちの水争いと水利権を握る石城寺の権威的立場が示されていると思う。
国志に謂う「大旱雨漏無増減」は現在でも同様であり、水量豊富で大雨後にも濁ることがない不思議な湧水である。志賀史光氏によればこの湧水は「小鹿山火山岩類(小杉火砕流堆積物や乙原溶岩)と由布川火砕流堆積物の境界に位置する」という。おなじ水系に属する志高湖(海抜570米)や神楽女湖(海抜550米)には地下水や湧水がなく専ら周辺の草原から流れ込む雨水を供給源としているのは、別府周辺の湧水の高度が200~400米に収斂されていることと関係がある。海抜500米を超える湧水口はないのである。
石城寺湧水は海抜450米・村で一番の高所にあり、天然の条件に恵まれて用水路の開削も比較的容易であったと思われる。その灌漑範囲は太郎丸(海抜300米)・梶原(同250米)・勢場(同250米)・中の迫(同200米)・で、御園や勢家には配水されなかったらしい。内成にはこのほかにも小湧水があり、大神峰神社境内の湧水と下畑の湧水を合わせて下畑集落の灌漑に当てていた。鎰掛集落は現在の「別府の森ゴルフ場」付近からの湧水を利用していたと思われる。

(法面構造)
 殆んどの畦畔が石積である。石積による棚田造成作業の順序としては、
「最初に石積みが築かれ、それから表土,或は畑であれば耕土を脇に寄せる。次に予定する湛水面より高い山側の土を掘り取って、低い谷側に築いた石積の所まで運んで平坦にした後,漏水を防ぐために平坦面に粘土を敷き固めて、表土・耕土を戻してならし棚田が出来る。畦畔が石積になるには、表土の下に礫があるかどうかによって決まる。傾斜の急な棚田にはよそから礫を運んでくることは殆んどない。」(中島峰広・日本の棚田)ということになる。
内成には土の下から出る野石が多くありこれが大部分使用されたがその殆んどが角礫である。
石積による棚田の造成作業には多くの労働力を必要とした。和歌山県紀和町史編纂委員会が町内・丸山にある千枚田について調査したところでは、10a当たり延べ300人~400人の労働力が必要であったと報告している。
中島峰広氏が宮崎県諸塚村で行った調査では、1940年代に人力とカルイ(背負い篭)・カタクチ(手篭)・唐鍬などの簡単な作業用具のみによって実施された棚田造成作業において、10a当たり延べ400人前後を必要としたことが確認された。諸塚村の具体例では、作業の効率を上げるために、12戸の農家が結をつくり、各戸1人ずつ出役して毎年春、秋の農閑期にそれぞれ1週間,計2週間ほど行われたが、この計算で12戸の全農家が10a の棚田を完成させるのに28年間を要した。したがって各戸平均33aの棚田がひらかれるのには100年以上の年月がかかったとの報告がある。おそらく内成の場合も手順はほぼ同様であったろうと思われるが、結いをつくり共同作業をする上で、この村に特有の神家(ジンガ・宮座の別称)の組織が関与しているのではないかと筆者は推測している。「内成の棚田を守る会」の二宮清康会長は「内成には昔から石工と大工が多かった。石工はチームを組んで遠く鹿児島方面までも出稼ぎに行っていたという。七島藺も孟宗竹もこれらの石工が持ち帰ったものであるという伝承がある。石積みの技術は相当古くからこの地に根づいていた。」と話す。材料としての石が豊富であり、石工がいて石積みの技術が高いことなど内成には棚田造成の条件が揃っていたのであるが、それにしても長い年月をかけて棚田が出来たのであろう。

(開発起源)
 農水省のデータでは近世となっている。歴史学上近世は、豊臣秀吉が小田原の後北条氏を滅ぼして戦国の騒乱に終止符を打ち、全国を統合した天正十八年(1590年)から、江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還した慶応四年(1868年)までの約280年間をいう。要するに豊臣秀吉の時代と江戸時代とをひとくくりにした幕藩体制の時代を近世として捉えるのが普通である。豊後の場合は、文禄二年(1593年)の大友除国後、所謂太閤検地を経て小藩分立となり、府内藩主に早川長敏が封じられた文禄三年から近世が始まると考えていい。ごく大まかに言えば内成の棚田は、西暦・1600年、関が原の戦いがあった頃以降に造成されはじめたというのである。農水省データの根拠が不明であるが、筆者はもう少し古い起源を持つのではないかと思っている。少なくとも中世中期には棚田が見られたのではないか。その根拠を以下に述べる

(Ⅰ)迫田型棚田の典型
海老沢衷氏は「荘園公領制と中世村落」で、迫田型の棚田をB型として
「(B型の棚田は)13世紀以降荘園史料でも確認できるもので、狭い谷間を這うように上る棚田である。水量の多い湧水点(イノコ)がある場合に発達したものとなる。多くの場合湿田であり、中世には安定した収量を見込める水田として領主の直轄田となる場合もあった。B型の棚田が発達しているところには、必ず中世以来の寺庵があり、石造文化財や古屋敷の存在が確認できる。」と解説している。迫田型の棚田がすべてこの類型にあてはまるとは断言できないが、内成の場合はこれにぴたり当てはまるように思われる。まず湧水点(イノコ)が豊富な水量を持つこと。弘安図田帳に地頭相模四郎(北条師時に比定)とあり北条得宗領であること。伝承ではあるが、宝亀年中創立の石城寺や元慶元年(877)創建の大神峰神社をはじめとする七佛七社があり、天正の兵火にそのいずれもが滅亡したという。七佛七社のうちいくつかは江戸期に再興され、廃絶した寺庵もその痕跡が確認できるので、中世に存在したことは確かであろう。天正の兵火とは、薩摩・島津軍が豊後に攻め入り乱暴・狼藉の限りを尽くした天正14年(1586)の豊薩戦争のことを謂い、中世の最末期の出来事である。また、内成には大神峰神社を中心とする宮座(神家・ジンガ)があり昭和初年まで存続していた。宮座は神社の経営ないし神事の執行に関する独占的権利を有する氏子集団の組織をいうが、その発生はおおむね中世といわれている。内成の宮座・神家が中世に起源を持つのかどうかは今後の検討課題であるが、宮座の存在そのものが中世の村の残影の一つであり正に生きた中世史であるといえよう。これらのことから内成は海老沢氏の指摘する条件にぴったり適合する棚田であり、中世の開発起源をうかがわせるに十分である。

(Ⅱ)村高
豊後国図田帳案(弘安8年・1285年)に
「内梨畑 大略依為畠地、代不分明也、地頭相模四郎」とある。読み下しすれば「内梨畑 大略畠たるにより、代不分明なり、地頭相模四郎」。口語訳では「ほとんど畠であるので、田数は不明である。」ということになる。
内梨畑はまた内梨子村(足利義満袖判下文・永和元年)とも内梨子畑(親世当知行所領所職等注進状案・永徳3年)とも書かれているが、地元の史料である小平の山神社に残る長禄二年の棟札には
「内梨内下尾平山神御宮之事旦那下尾平之弁才子十郎太郎立願作申所也」とあり、1458年に当たる長禄二年に「内梨」の地名が記載されている。これらのことから、「内梨」・「内梨畑」・「内梨子村」を同一のものとして、現在の内成に比定することは定説である。したがって弘安8年の段階では内成は畠ばかりで水田は殆んどなかったということになるが、石城寺の下から豊富な湧水があるのに、水田が開かれていないというのは奇妙に思えてならない。
正保四年(1647年)に成立した豊後国郷帳(正保郷帳)によると、

日根野織部正領分
 高 四百九拾弐石四斗七升三合      笠和郷
 内 三百三拾八石六斗壱合    田方     内成村
   百五拾三石八斗七升弐合   畠方      木山有

となっており、水田面積の多い生産力の高い大村であり、それゆえに府内藩中郷内成組として大庄屋が配置されていたのである。この二つの史料からみれば、弘安8年から正保4年までの約360年間に畠が棚田になったことになるが、先にも引用したように、石積の棚田造成には多くの労働力が必要であり、長い年月をかけての造成となるから、おそらく100年~150年はかかったであろう。単純に考えれば少なくとも1500年頃、中世末期には棚田の造成が始まっていたのではないだろうか。開発起源を近世と限定する根拠は乏しいと筆者は考えている。
小出博氏の紹介によれば、中国では段状になった耕地を梯田と呼んで田と畑を区別せずに用い、日本における棚田と段々畑のような使い分けがないとのことである。弘安図田帳における「大略依為畠地」の畑地にもそのような厳格な区別はなかったのではないか、すでにこの時点で小規模の棚田は存在していたのではないかと思われる。
中島峰広氏は棚田の造成過程について、「土坡と石積の棚田を造成の時期で比較してみると、歴史的には造成が容易であったと思われる小区画の土坡の棚田が先につくられ、後に比較的区画の大きい石積が現れたとされている。(中略)土の下に礫のあるところでも、最初土坡で固められていたものが後に石工技術の発達・普及により、崩壊しにくい石積にかえられていったものと思われる。」(日本の棚田)と書いている。内成の場合もおそらく最初は土坡で棚田がつくられたのであろうが、水田は相当早くから、少なくも中世中期から開けていたのでないかと思われる。そう考えなければ、近世の入口である正保4年の豊後国郷帳にみる田方・三百三拾石余の石高が説明できないのである。

(Ⅲ)近世の村高(生産高)の推移
次に村高の推移によって検証してみよう
 
 正保4年(1647・豊後国郷帳)   492,473石(100.00%)
 明暦3年(1657・御取ヶ郷帳)   510,962石(103.75%)
 元禄14年(1701・元禄郷帳)   526,032石(106.81%)
 天保5年 (1834・天保郷帳)   595,047石(120.83%)
 明治初年(1868・旧高旧領取調帳) 595,047石(120.83%)

正保郷帳では田方338石余、畠方153石余の区別がありそれによると、田方68,7%,畠方31,3%の割合になる。明暦以降は区別がなく合計の石高で表示されているが田方・畠方の割合はほぼ同じであったとみていいのではないかと思われる。元禄郷帳から天保郷帳までの130年間に約70石の増加があったが、これは小平井路の開削(貞亨4年・1687)によって枝村・詰村と小平村が水懸かりになったことの成果である。当時の内成村は現挾間町詰・小平地区を枝郷(枝村)として抱えていたが、本稿の対象である内成棚田は本村に位置し、現別府市に属する。小平井路の開削による増加と農業技術の進歩による増収を控除すれば、正保から明治初年にいたる220年の内成村の石高はほぼ平行であったといえるのである。ここで強調したいのは内成・本村は中世末から殆んど生産高に変化のない状況が明治まで続いてきたということであり、それは中世に開発造成された棚田を中心とする生産基盤を引きついできたということにほかならないのである。

(Ⅳ)小平井路の開削
天和元年(1681)一月、内成村の枝村・小平村の六左衛門(大野氏)らが発起して、由布川上流の現別府市大字東山合棚に取水する小平井路の開削が具体化された。当初の計画ルートは小平村から詰村を経て内成村下畑へと通す予定であったが、貞亨元年(1684)二月に内成村大庄屋太郎右衛門(平野氏)が「聊間違の廉にて御退役」となったため工事は中断された。二年ののち貞亨三年十月、内成村大庄屋を兼ねていた来鉢村大庄屋市左衛門(加藤氏)の要請により通水ルートが当初の内成村から来鉢村へと変更されて、翌貞亨四年三月完成した。小平井路は、小平・詰・田代・中畑・来鉢の各村に通水、灌漑面積は約100町歩に及び由布川左岸沿いの集落を潤す貴重な役割を現在まで果たし続けている。この井路の開削により枝村小平・詰は水田化され、前にみたように天保郷帳で大幅な石高の上昇を示したが、とりわけ下流の来鉢村の伸びが大きかった。日本の棚田百選に選ばれた「由布川奥詰棚田」はこのときを開発起源とする。小平井路の開削経緯の中で注目されるのは、当初内成村に通水する計画があった点である。このことは石城寺の湧水による水利が行きわたらない地域(下畑や鎰掛)があったということを意味する。大庄屋太郎右衛門はこれを是正しようとして頓挫したのであるが、下畑や鎰掛は旧来の小湧水口に頼らざるを得なかったのである。

(Ⅴ)畠と畑
日本で田といえば水田のことでありこれに対するハタケの漢字は「圃」である。われわれが日常使っている「畠」や「畑」は中国伝来の漢字ではなく、日本で作られた漢字すなわち国字である。この両字の相違に着目して、畠は定畠であり、畑は焼畑であると説く黒田日出男氏は「日本中世開発史」の中で
「平安時代とその以前では畑という字は使用されず畠のみであるが、鎌倉時代になると、畠と区別された畑という字が使用されるようになり、それは明らかに焼畑を意味していた。しかし、慶長・元和年間になると、同一検地帳のなかでも畠と畑の両字が混在するようになり、そしてほぼ寛永期になると畑の字で統一されるようになる。」と解説している。前に触れたように弘安図田帳に「内梨畑」と「大略依為畠地」が出ている。これに関して飯沼賢司氏は別府市誌の「得宗(北条惣領家)領の内梨畑」の項で
「内成は鶴見山の尾根が大分郡方面にのびた上に展開する村であり、水には恵まれていたが、川はなく、湧き水を使用して山の上に水田が開かれた。鎌倉時代は<ほとんど畠であるので、田数は不明である>と書かれているように、一面に畠が広がる景観であったと思われる。<畑>という表記は黒田日出男によって明らかにされたように、中世では焼き畑を示している。開発当初はまず焼き畑が行われ、やがてそこが定畠化していったとみられる。」と書いている。耕地の開発を要領よく順序立てて説明したものに、樋口清之氏の「梅干と日本刀」の一節がある。「まず山を焼く。焼畑開墾が最初である。林を焼いて、その炭や灰を鋤き込んで土に入れる。自然土壌は酸性が強いから、こうして炭や灰が含んでいるアルカリで中性土壌に変える。そこへカブやヒエ、豆を蒔いて収穫する。これが第一段階で、火で焼いてつくる耕作地だから、火の田、つまり畑である。耕しているうちに水平になり、木の根も腐ってなくなる。凸凹もなく,妨害物がない耕作地だから、白い田、つまり畠である。それが完全になって、水を引けるようになって、はじめて田になる。」と。おそらく内成の水田化・棚田化は
このようにして進められたのであろうが、弘安図田帳の頃にはすでに焼畑の段階を終え、畠すなわち定畠化していたのである。筆者はさらに一歩進めて、定畠の一部は段々田(棚田)となっていたのではないかと思っている。
飯沼氏は続けて市誌に「しかし、それにしてもほとんど水田がないこのような畑作地帯の内梨子がなぜ北条得宗領に組み込まれたのであろうか。生産という面からみれば、価値の高い所領とは到底考えられない。得宗領の特色として海上交通・陸上交通の要衝をその所領に組み込んでいる点が従来から注目されているが、この内梨畑も交通上の要衝の視点から考えるしかない。」と断じているが、果たして生産高の面で価値のない土地を得宗家が所領とするであろうか。交通の要衝の視点に絞ってみれば、豊前道が通っていた赤松村や七蔵司村、あるいは豊後道沿いの朴木村や植坪村など近在に候補地は多くある。筆者が前項(Ⅱ)で強調したように、正保郷帳における内成村の生産高の高さは一朝一夕にして出来るものではない。弘安図田帳の頃からすでに一定の生産高があったと考えるほうが合理的ではないかと思われる。また雉城雑誌によれば内成には七仏七社があり鎌倉時代から室町時代にかけて仏教文化が花開いていたが、天正の兵火で滅亡したという。この記事を信ずれば四方2キロ程度の小盆地にそのような数多くの仏教施設があったということは、この地にそれを支える経済的基盤があったということを意味する。米を中心とする生産高があったのである。それを可能にしたのは、一番高いところにある石城寺の豊富な湧水源(イノコ)である。弘安期の内梨子村は交通の要衝という利点に加えて、生産高の高い価値ある所領であったと言えるのではないだろうか。

(Ⅵ)神家(ジンガ・宮座)について
前にも触れたように、内成には大神峰神社を中心とする宮座の組織があった。宮座の構成員の呼称はまちまちで、神人・神願・神元・神官・仕官・地官・侍官というところもあるが、内成では神家(ジンガ)と呼ばれている。筆者は石積みの棚田を造成する共同作業にこの神家の組織が働いたのではないかと推測している。昭和46年、当時別府青山高校の小玉洋美氏は、現地内成の古老からの聞き取り調査をされ、「内成の民俗(1~3)」(大分県地方史)として纏められた。以下は神家についての引用である。
*「古来より神社の祭典は村内十五軒のジンガ(神家)によって執行され、ジンガ以外の者は神事に関与出来なかった。昭和六年頃にみこしかきを青年団が請け合うことになり、ジンガの特権が開放された。ジンガと言い伝えられているのは岩水の岡氏、カイガケの平野氏、御園の平野秀永氏と平野シズカ氏、梶原の園田実氏と園田登氏、山際の平松氏、太郎丸の後藤登氏、勢場の大野秀永氏、石城寺の杉田氏、中の迫の三ヶ尻氏、勢家の大野マモル氏,下畑の生野氏。以上の十五軒である。」(註・勘定すると15軒ではなく13軒)

*「現在では家と家の間に階層は認められないが、古くは屋敷内に小一郎神を祭ってあるジンガと呼ばれる家が十五軒あった。氏神社の祭礼に当たって特権を有していた家々で、同姓の家々の本家筋に当り、系図を所有しているところから系図元と呼ばれる家もある。屋号からみるとオカタ・オモテと呼ばれている家がそれに当る。」

*「ジンガは一般に土地の所有高が多く、中には近年まで名子を所有した家もあった。他村から来た者や名子が独立した場合には、これを<入り百姓>と呼んでいたようである。分家が独立して村入りをしても本家の統制を離れることはあり得なかった。姓を同じくしている家のことをイットウ(一統)と呼んでいるが、本家と分家の関係が浮かび上ってくるのは先祖祭りの時である。座元が回り順になっている一統よりも、固定している一統の方がより明りょうな重層関係をしめしている。本家は系図元とも呼ばれ、正月の中旬から二月にかけて系図祭りをする一統が多い。」

松岡実氏も内成の神家について昭和37年に現地調査をされているが、その記録を「内成・隠山総合調査報告」(昭和57・別府市教育委員会)から引用すると
「大神峰神社には、神家18軒があるが、神家は、神社に奉仕する特定の家で、神事はすべて神官(世襲神官 神尊家・昭和37年当時は岡隼瀬氏)とともに神家の戸主で行ってきた。古くは7日間の精進潔斎はもちろん、祭典中は一週間布団持参で神社に詰めたといわれ、最近までは神輿の奉仕や祭事の世話万端は、神家の特権であった。現在でも祭典中は玄関前に竹を立てシメナワを張っている。神官家の神尊勝男氏によると、神家は神職の階級の一つで神官を補佐する世襲の家柄であろうと言っているが、地区別の神家は次の通りである。
* 勢家(大野守・大野明)*中の迫(三ヶ尻定彦)*太郎丸(後藤東・後藤守永・後藤太郎馬)*岩水(岡長喜・岡成喜・岡隼瀬)*御苑(平野静・平野秀永) *勢場 (大野守) *梶原(杉田定雄・平松豊喜・園田稔・園田峰吉) *鎰掛(平野弘・平野新喜) 以上計18軒」

神家の数が小玉説では15軒(具体的な家の名では13軒を挙げているが)であり、松岡説では18軒と相違があるが、これは現地調査の際の古老たちの記憶違いにもよると思われるが、伝承の風化にも原因があろう。
宮座は近世初期、だいたい15世紀ころより顕著になってくるが、発生はそれよりもはるかに古く、とくに経済的意味での「座」の発生と密接な関係があるらしい。宮座のそもそもの発生の根拠が、神社と自分たちとの関係を誇示することによって、集落内における優先的地位を保持するところにあり、そこに一貫して底流するものは家柄であり、一種の選民意識であるとされている。
内成の宮座が中世に起源をもつものであるかどうかは、今後の検討課題であるが、大神峰神社が天正の兵火から再興された江戸中期以降には確実に存在していて、神事だけではなく村の支配的役割を担ったのであろうと思われる。

(まとめ)
以上みてきたように内成の棚田の開発起源は、農水省のデータよりもさらに古く、少なくとも中世中期以前に遡ると断定しても間違いない。内成には伝承が多く残されている。宝亀年間(770~780)仁聞菩薩が開基したという石上寺(石城寺)や元慶元年(877)、大神比義の苗裔・大神道国が勧請したという大神峰神社、そして七佛七社などが代表的である。これらの伝承は歴史学上史実として認定するわけにはいかないが、この地域に古くから人々が住みついて集落を形成していたことを示唆するものであろう。古代人々は水のあるところを探して定住の地としてきた。内成に住みついた人々は石城寺の豊富な湧水をたくみに利用して、今日にみる見事な棚田を造成してきたのである。

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府内藩 中郷・内成組について

(はじめに)
中郷・内成組の成立時期について、大分県史、挟間町誌はともに「制度発足当初は成立していなかったのではないか、後になってから来鉢組、下市組のいずれかから分離独立したのであろう」との説を掲げている。筆者は年来この説には疑問を持っていたが、このたび若干の資料によって当初成立説を確認することを得た。以下はそのあらましである。

(一町三郷の制)
府内藩では領内を一町三郷の四つの地域にわけて支配する体制をとった。
三郷とは城下に近いほうから里郷・中郷・奥郷とよばれたが石城川域は中郷に属している。各郷の下には、大庄屋居住村の名を取った村組が置かれた。村組には大庄屋、村には庄屋・組頭が配置された。また大庄屋は居住する村の庄屋を兼帯していた。たとえば来鉢組大庄屋は来鉢村の庄屋を、内成組大庄屋は内成村の庄屋を兼ねていた。大給松平氏が入部した直後(万治元年頃)の中郷の村組は

来鉢組(2631・177石)
田浦村、白木村、大山村、志手村、椎迫村、金谷迫村、由原村、来鉢村、丸田(来鉢村枝郷)、黒野村、古原村,三船村、東院村

内成組(1657・177石)
七曾子村、内成村、詰(内成村枝郷)、小平(内成村枝郷)、宮苑村、角前(宮苑村枝郷)、新村、高崎村、山口村、中畑村、平床村、田代村,植坪村、時松村、朴木村

下市組(1987・71石)
小野鶴村、国分村、森木(国分村枝郷)平横瀬村,下市村、上市村、鶴田村、向原村、中村、海老毛村

という編成になる。地理的にみて下市組・内成組の構成は首肯できるが、来鉢組は大分市域を含んだ飛び地がありかなり複雑な村組であり、どのような意図があったのかは推測できない。
なお石高は「大分市史」が万治元年(1658)「御取ヶ郷帳」(府内藩記録)より作成したものの引用である。


(中郷・内成組の成立)
内成組の成立時期はいつか。すなわち三郷村組制が発足したとされる、竹中重利の時代から成立していたのかどうかについて、前述したように「大分県史」、「挟間町誌」ともに疑問視する記述がある。
まず大分県史をみてみると
「貞亨元年(1684)の<小物成覚>(府内藩記録)は、竹中時代からの小物成についての三郷・町組の報告書であるが、東五か村のうち花津留村庄屋と中郷内成組大庄屋の名前が見当たらない。花津留村は、前述したように中津留庄屋の兼帯であったためであろう。内成組は単なる記載漏れなのか、たまたま庄屋不在で来鉢か下市組庄屋が兼帯していたのか、それとも当時は中郷の村組が来鉢・下市の二組で編成され、内成組は成立していなかったためであろうか。いずれとも確認できない。しかし、この三郷の制ならびに村組は、竹中時代慶長検地の時期に編成され、多少の修正や変更はあったかも知れないが、日根野・松平時代に継承されてきたものと推察される。」と書かれている。(近世編Ⅱ・P48)
挟間町誌には
「しかし府内藩記録・貞亨元年(1684)<小物成覚>(本年貢・物成以外の諸雑税についての全府内領からの報告)には来鉢村大庄屋市右衛門、下市村大庄屋善右衛門の両名の名前しか書かれていない。これから推察すると、その当時は中郷は二組で以後内成組が分離独立したものであろう。」となっている。
(P167・市右衛門は市左衛門の誤り)
両誌はともに大庄屋の名前が記載されていないことを理由として、そもそも内成組は三郷の制発足当初から成立していなかったのではないかと疑問視するのであるが、筆者は内成組は当初から成立していたのであり、分離独立したものではないと主張したい。その根拠を以下の(Ⅰ)および(Ⅱ)に詳述するが,その前に両誌が根拠にしている資料・貞亨元年の<小物成覚>を掲げる。

   「        小物成覚
    一 茶柿渋桑漆梅之儀ハ竹中伊豆守様御代慶長十三年之御
      検地之時ヨリ納申由承申候則右之地床御竿御引被為成
      由承申候以先例只今迄上納仕候右之品々無御座村モ多
御座候得共前ゝ之通ニ上納仕候
          (以下省略)

      子ノ              来鉢村大庄屋
十二月廿日              市左衛門
               下市村大庄屋
                   善右衛門
      市川清太夫様御手代
         早見忠兵衛殿
         角野作兵衛殿           
                                  」
                  (府内藩日記・府内藩記録 乙六)
日付の「子ノ十二月廿日」は貞亨元年のことであり、市川清太夫は藩の重役で、郡奉行(代官)である。    

(Ⅰ)小平井路開削記録
由布川水系の小平井路開削経緯は「天和元年正月大分郡小平井出記録」(慶応三年・1867の写し、大野家文書)に詳述されている。この文書を要約すれば、「天和元年(1681)一月に下小平村の六左衛門(大野氏)が中心となり計画立案、四月には予備調査が内成村大庄屋太郎右衛門、詰村の久右衛門、そして六左衛門によって行われ、翌天和二年三月から開削にとりかかり、十一月二十二日までに井手口よりの貫が開通、翌三年二月からは貫下より大畑下までの開削が進められた。当初の計画では井路は大畑下から詰村を経て内成村(現別府市大字内成)へと通す予定であったが、翌貞亨元年(1684)二月に内成村大庄屋太郎右衛門が「聊間違の廉にて御退役」となったため、工事は中断された。二年後の貞亨三年十月(1686)になって、この間内成村大庄屋を兼ねていた来鉢村大庄屋市左衛門(加藤氏)の要請により通水経路が当初の内成村より来鉢村へと変更され、貞亨四年三月完成をみた。」ということになる。

大野家文書のうち「内成村大庄屋・太郎右衛門」が署名した書替仮証文は次の通りである。
「     書替仮證文
    一 豊州速見郡別府村之枝村上小平村棚林村之内ヨリ新井出掘通養水
    ニ仕申度内証書ニテ為必見掘方仕井出来就之上本證文引替可申候
    約束ニ御座候
    右新井出下ハ勿論御料内別府棚林上小平村モ御勝手宜敷御座候ニ付御
    公儀様ニ被仰上内分必見ノ為掘方御免被仰付候旨奉其意候
    右新井出堀方ニ付夫方往来可仕候得共無作法ノ義無之様急度可申付候
   一 上小平村新田畑成田出来ニ相成候共養水御勝手次第可被成尤破損
    之節者井出下ヨリ御普請可仕筈之事
   一 新井出出来之後者不軽御厚恩ニ御座候ニ付御恩賞ノ記トシテ並地床
     費料トシテ銀三枚宛指出可申候事
    右内證一決之為メ仮證文指上置申候処仍テ如件
        松平対馬守領内
             内成村大庄屋
   天和二年三月                太郎右衛門
             小平村弁指 惣百姓代
                         六左衛門
    別府村庄屋
        助之丞殿
    上小平村頭百姓
         市郎右衛門殿
     棚林村頭百姓
         六右衛門殿                   」

この証文は小平井路の水源である上小平村との約定が整い工事に着手するに際して内成村側から提出されたもので、内成村大庄屋・太郎右衛門 から別府村庄屋・助之丞ほかに宛てたものである。
ここに至るまでの経緯の中で、太郎右衛門は六左衛門を指揮し、府内藩代官・市川清太夫や天領別府村庄屋・助之丞との折衝に勤めながら工事着手に漕ぎ着けたのである。天和二年は西暦1682年に当たり、大庄屋・太郎右衛門が退役になる二年前のことである。
このように、貞亨元年二月に内成村大庄屋が更迭され、来鉢村大庄屋が兼帯していたために同年の<小物成覚>に内成村大庄屋の名前がなかったのであり、中郷内成組は三郷の制編成の当初から成立していたのである。
なお後述するように内成村大庄屋(平野)太郎右衛門は同家の系図によれば,四代目にあたり曾祖父(平野)民輔が初代の大庄屋を任命されたとある。


(Ⅱ)村組の石高
里郷では、羽田・下郡1459.・976 石、古国府組 1811・962石、上村組 1861・991石、賀来組 1547・529石。
奥郷では 蛇口組 2043・652石、橋爪組 2010・523石、野畑組2244・193石。

のように里郷で千五百~千八百石、奥郷では二千石を超えているが、来鉢組の2631石余が一番多い。もし来鉢組から内成組が分離独立したとすれば、当初の来鉢組は4288石強の村高となり、村組編成の中で突出した存在になる。府内藩三郷の制で村組の編成が千五百石~二千五百石になっているのは、岡藩の千石庄屋の制度に通じるものがある。千石庄屋というのは、千石の禄高をもつ庄屋をいうのではなく、その庄屋の支配する範囲が千石の石高に相当するという意味であり、庄屋のもつ農村内における地位を認め、自領内の農村支配体制の末端に組み込む方策の一つである。したがって庄屋の支配する石高にひどい凹凸がなく出来るだけ均等に組むことは当然の策といえよう。このことからも中郷は府内藩成立の当初から来鉢組・内成組・下市組の三組構成であったとみるのが妥当であろう。
               

(内成組大庄屋・平野氏について)
前述したように小平井路開削に当たって退役となった内成村大庄屋・太郎右衛門は内成・下畑に本拠をもつ平野氏であったと筆者は推測してきたが確たる証拠が見出せずにいた。このたび大正六年一月に編纂された「石城川村郷土誌」の「寺院及国宝、什宝、法会」の法専寺(法泉寺とも書かれている)の項に
 「三、開基  平野九良左衛門
    氏ハ内成大庄屋職  法号一黙久不居士 天和元年八月三日卒ス」
 とある記事を発見して、この推測が正しかったことを確認した。(後述するように平野家系図にも同様の記事がある)
法専寺について、明治二十三年に大分県が作成した「豊後国大分郡寺院明細牒」によれば
「 大分縣管下豊後国大分郡内成村字テラ
         建仁寺末
     臨済宗建仁寺派   法専寺
     本尊    釈迦牟尼如来
     由緒  開基平野九郎右エ門ナル者仏門ニ帰依シ正保二酉年当寺ヲ建立ス 本山建仁寺ヨリ寺号ヲ賜ル 柏岩和尚ヲ以テ開山ス 柏岩和尚挟間村龍祥寺住職ニテ同寺隠退ノ后復タ当寺ヲ開山スルモノ也
       境内仏堂    一宇
         観音堂
         本尊    観世音菩薩
         由緒    開山柏岩和尚慶安三寅年八月建立ス
      檀徒  三拾五人
                                  」
とある。両資料には「九良左衛門」・「九郎右エ門」と相違があるが、後述するように「平野家系図」では「九郎左衛門」とあるので以降は「九郎左衛門」と記載する。関係する事項を年号順にみてみると

正保二年・1645年   九郎左衛門(大庄屋)、法専寺建立
慶安三年・1650年   柏岩和尚,法専寺に境内観音堂建立
天和元年・1681年   四月太郎右衛門(大庄屋)・小平井路予備調査開始 八月九郎左衛門死去
貞享元年・1684年   太郎右衛門、内成組大庄屋退役 来鉢組大庄屋市左衛門(加藤氏)が兼帯
貞亨三年・1686年   小平井路の通水路が来鉢に変更
貞亨四年・1687年   四月小平井路完成(内成村庄屋は喜兵衛)
となるが、九郎左衛門と太郎右衛門は親子であり天和元年の死去前に隠居して大庄屋役は嫡子の太郎右衛門に譲っていたのであろう。

(平野家系図)
平野琢朗氏所蔵の平野家系図によって、該当の年代を摘記すれば
左衛門尉(大友義統・国除のため内成村に帰村土着)-民輔(大庄屋となる)-氏輔(大庄屋)-九郎左衛門(大庄屋・元和九年当村常楽山法泉寺建立開基ト成)―太郎右衛門(大庄屋)―八右衛門(自当代俗医)と続く。

平野左衛門尉は大友与力の一員で、主家崩壊のため帰農、土着したことになるが、資料上大友家臣団には平野氏の記載が見当たらない。某氏の被官かもしくは内成を本拠とする土豪ではあるまいかと筆者は推定している。
関が原の戦いの後徳川幕府が成立するが、慶長六年(1601)竹中重利が二万石の府内藩主となり、このころから村支配の大庄屋・庄屋・頭百姓などの体制が整い始める。大分県史によれば、大庄屋・庄屋は大友氏の旧家臣や土地の豪族、即ち土豪の中から任命される事例が多いという。内成の土豪である民輔が大庄屋に任命されたのもこの時期である。

(まとめ)
本稿の依拠した資料「天和元年正月大分郡小平井出記録」(大野家文書)は慶応三年の写本であるが、同井路の開削経緯を克明に記録してあり資料価値は高いと思っている。挟間町誌などもこの記録を使って「灌漑用水の開発」を記述している(P228)が、少なくとも天和年間に太郎右衛門(平野氏)が内成村の大庄屋であったことは動かしがたい事実である。また平野家系図によれば太郎右衛門を遡る四代前を大庄屋の嚆矢としている。一般的に歴史学上、系図の資料性は低く全幅の信頼を置く訳にいかないが、庄屋クラスの旧家では江戸時代以降の記述には信用し得るものがある。平野家の場合は法専寺開基の傍証もあり、年代的にも十分納得し得る内容であると判断される。
以上のことから、中郷内成組は後に分離独立したのではなく、平野氏を大庄屋として三郷村組の制発足当初から成立していたのである。
 


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里正について

江戸末期の村方役人に名主・庄屋と並んで里正という言葉が散見される。
里正なる語は歴史辞典に記載がないところをみると歴史用語としては認知されていないのであろう。
角川漢和中辞典(貝塚茂樹ほか編)によれば
「里正~村の長。里長。村長。(杜甫・兵庫行詩、去時里正為裹頭)」とある。里長について青木和夫氏は
「古代の地方官。大化改新後の律令国家は、村々を50戸ずつに区切って里を編成し、村人のなかから適任者を選んで里長1人ずつを置き、国司・郡司の命令のもとに地方行政の事務をとらせた。京ではこれを坊長といった。」(世界大百科事典)と解説している。王政復古の潮流に合わせて古代律令期の官名・里長と混同しての使用であろうか。その背景を探ってみたい。
(高崎村里正)
卑近な例を挙げて里正の使われ方をみてみよう。以下はいずれも石城川・高崎村庄屋、佐藤家にかかわる事例である。

(Ⅰ)雉城雑誌
「  大友城址
(前略)按ニ、此山及城ノ名義高崎ト云事詳ナラズ。高崎邑当代其南麓ニアリテ、當山ハ田浦邑ニ属ス。里談ニ云、此山ノ南麓山口邑ハ、中古高崎邑ノ里正ノ隠居料ニ分村セシ地ニシテ、今モ両村ノ田圃相犬牙シテ一村ノ如シ。(後略)」
(天保年間1830~1844に阿部淡斎が編述)

(Ⅱ)吉兆原開拓之起
「一 府内領大分郡高嵜村字吉兆原開拓 府内藩主松平左エ門之丞殿御代藩政改革之為日田郡豆田町之人廣瀬久兵衛氏ヲ聘シタリ然ルニ領内ニハ山林原野多々有之ニ付一之開拓地ヲ起サン事ヲ計リ藩主ニ申述ベタルニ藩主御聞入被相成時ニ高嵜村里正佐藤彌冶右エ門ヲ召シ協議之上、、、、(後略)」
(佐藤家文書・明治初年に起草、明治二十四年罹災消失、明治三十九年復刻)

(Ⅲ) 佐藤丈平翁之碑
「佐藤翁幼名通造後改丈平性温厚清淑大分郡荏隈村元旧田中村里正桜井大兵衛之五男嘉永二年十一月生千家明治元年為高崎村里正與冶右衛門之養子幼有才気初桜井文平読書廿歳己後侍養祖父佐藤萬里学珠算測量之術悉能精通同二年府内藩下里正同格之命同五年廃藩後為保長尋為副戸長同九年辞職官賞其勤勉労、、(後略)  」
(明治三十九年、相馬城陽并書・惟福寺前に建立の石碑)

明治維新後の府内藩から大分県に移る4~5年の間の行政組織の変遷を大まかに辿ると、
*明治四年七月  廃藩置県断行
*明治四年十一月 大分県成立、参事に森下景端任命
*明治五年六月  大区・小区の行政区画制定
となる。
「大分県の歴史」(渡辺澄夫著)によれば
「(翌五年)戸籍調査の前提として、数ヵ村をまとめて小区とし、小区をいくつかまとめて大区とする全国一律の行政区画を定めた。大分県は八郡を八大区に改組し、160小区とした。(小倉県は九大区103小区)。これで郡制は廃止され、明治十一年の郡区町村編成法までなくなるわけである。
大区には区長・権区長、小区には戸長・副戸長・保長がおかれ、庄屋・名主・年寄の旧制は廃止された。」とある。
この記述によれば小倉県に属した下毛郡、宇佐郡を含めた現大分県全域において、里正なる村役人の官名は使用されなかったことになる。
(全国的な里正の使用状況)
元国文学研究資料館長の森安彦氏は里正という言葉に強い関心を持たれ、武蔵国多摩郡の某名主の記録「里正日誌」を解読刊行されている。
その「里正日誌」は天正元年(1573)から明治六年(1873)までの300年間、六十六冊に及ぶものであるが、森氏はなぜ「名主日誌」ではなく「里正日誌」なのか、いつ何のために編纂されたのかの疑問を解明されようとしている。森氏著「古文書からのメッセージ」によれば、氏が集められた「里正名称使用状況」情報は

①高山県
明治元年~四年まで名主が里正と改称され、県役所の中に里正詰所が設置された。時の高山県知事は水戸藩脱藩浪士で勤皇志士梅村速水。王政復古策の一環として、律令時代の里正を復活させたのであろうかと森氏は推測している。

②岡山県
「岡山藩は明治三年に大庄屋を大里正に、名主を里正に、また五人組頭を目代と改めた。翌四年廃藩置県のあと、岡山県は明治五年に大里正、里正、目代の呼称を廃止し、大里正を戸長、里正を副戸長と改めた。(谷口澄夫<岡山藩>など)」

③長崎県
「江戸時代の村役名称は一掃され、新政府下の諫早でも里正・副里正、組頭等の役職名ができましたが、明治五年またもこの制度は廃止され、新たに戸長・副戸長と改称されるようになりました。(野中素共著<諫早歴史物語>)」

(まとめ)
上記に紹介した三県のほかにも、「里正」を官名として使用した例があるのかも知れないが、それにしても維新後の混乱期の2~3年のことである。王政復古の大号令のもと、廃仏毀釈などと並んで徳川幕藩体制の否定を急ぐあまり、急激な新政の展開の一環として「里正」が浮上したのであろうが、おそらく語感の好さも相俟って広く巷間に使用されたのではないか。そして日清・日露の戦争に勝利して皇軍意識の盛り上がった明治末年あたりの野史や系図等に多用されたのであろう。


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内成の地名

 内成の歴史は古く、弘安図田帳に内梨畑とあるのが初見。史料上では内梨子村とも書かれている。蒙古軍の来襲があった(弘安の役)直後のことで西暦1285年頃のことである。地元の史料では、長禄二年(1458)の「小平の山神社」の棟札に「内梨内下尾平山神御宮之事(以下略)」と内梨の地名が見える。正保郷帳(1647年)には内成村として出ているので中世末期には内成と呼ばれていたのであろう。石城寺の僧・加納山佛海が明和七年(1770)に著したといわれる「梨洞山石城寺略縁起」によれば「内成」とは「唐土龍門カ滝四十八口の内成り」との謂いであると説いているがどうであろうか。俄かには信じられない。また一説には同略縁起にある「鳴瀬谷々鳴り渡り」を引いて、川水の流れ音をあらわす呼び名から起こったものであるとするものもある。以下はその出典である「梨洞山石城寺略縁起」である。
「抑豊府城ノ西内成村梨洞山石城寺ノ由来ヲ尋ルニ、徃昔人皇四十九代帝光仁天皇ノ御宇仁聞菩薩出現アラセラ給ヒ、是ヨリ八丁麓ニ入船屋鋪ト言処有テ老人夫婦住ミケリシガ、則菩薩御来光有シトキ忽チ紫雲靉靆震動スレハ両人ノ者共死入心地シテ臥居ニ、良有テ静ニ成リケル故、頭ヲ挙レハ顕然ト尊僧マシマシ我事故有テ此家ニ来ル、暫シノ間可滞トノ御抑、御宿ノ儀最安キ御事ナカラ、此所ハ殊ノ外水ニ不自由仕、我ワレヲ始メトシ村ノ者共此所ヨリ南ニ當リ二拾五丁程隔テテ深キ谷川ヨリ、朝ニハ頭ニカツキ、夕ニハ牛馬ニオフセテ持運フ、右体不自由ノ事ナレハ御足ヲ洗フ御場トテ捧ル事モ叶フマシ、是ハ如何成因縁ナルゾト涙ヲ流シテ嘆キケレバ、菩薩諸共嘆カセ給ヒ、我衆生ヲ助ケントテ早天壱丁程北ニ登ラセ給ヒ、杖ヲ以テ穿タモフ用水ヲアタヘ給ヒ、水ノ出口ノ上ニ大石アレバ、菩薩石ノ平ヲ築ホカセケルニ、忽水シミ出ルナリ、是ヲ耽(イボ)落シ水ト号ルトテ、菩薩右ノ屋敷ニ御帰有、入船屋敷ト御申トハ仁聞菩薩御一宿有シ事ヲ以テ御申トハ申伝ナリ、仁聞大菩薩夫ヨリ当山ニ登ラセ給ヒ、大石ノ上ニテ三七日ヶ間座禅行ヲ成シメ、満スル朝東之空ニ御声高ク万民ヲ救ンタメ、唐土龍門ヵ滝四十八口之内一口此地ニ与フヘシトテ、紫雲靉靆顕ン然ント尊僧マシマシ、則十一面観音菩薩之尊体ヲ現レ玉フ、仁聞菩薩香木ヲ以テ尊形ヲ写シ刻マセ給へバ尊体虚空ニ消失ケリ、時ニ仁聞菩薩麓ニ下リ有、手杖ヲ以紫ニ成石ノ根ヲ鑿チ給へバ忽チ水湧出、爰ニモ其所ニモ彼ニモ鳴瀬谷々鳴渡リテ流出絶間ナケレハ、所ノ者共大ニ驚キ、不思議成ル御僧カナトテ頭ヲ地ニ臥感入喜悦限リモナカリケレバ、菩薩亦々仰ニハ以後ニ七ツノ妙アラン、是亦衆生ヲ助ンガタメ此水ハ唐土龍門ヵ滝四十八口ノ内壱口此地ニ与フベシトテ、観世音菩薩御仰ナレバ、此水戴ク時ハ南無大慈大悲ノ観世音菩薩ト唱へ飲メバ悪事災難万病ヲ遁ルルナリト仰ケリ虚空ヲサシテ失サセ給、当所内成トハ唐土龍門ヵ滝四拾八口ノ内成ト申也
      七不思議事
 一ニハ 水ノ出口ニ虚空ヨリ大石落両川ニセキ分ル事
 二ニハ 龍門ヵ滝二表シ四拾八本ノ井ヲホリ下リ流ルル程イミル事
 三ニハ ヒルノ虫人二スイ付ク事ナシ
 四ニハ 川ノ者人ヲトラザル事
 五ニハ 婦人懐胎ノ時身ヲ分ケスシテ死スル事ナシ
 六ニハ 火難ノ時類火ナシ一軒火事ト申伝
 七ニハ 青梅年中有
 此ノ事ハ天下無双ノ不思議ナリ
一、 境内八丁四方本堂ヨリ西北ニ当リ、カラ滝・ゴゼガ谷・天狗岩・畳石・柱岩・八杖岩・座禅石・天狗羽休メ・如此略縁起

○梨洞山石城寺
もともと、地名伝説はそれ自体が地域住民の精神生活史の一班を物語る貴重な資料であるが、だからといってそれがあたかも真実の地名由来であるかのように扱われるのは大いに問題のあるところであろう。筆者は、本来「内梨」であったものが、ナシを忌み嫌って、ナリと転訛したものであろうと推測している。石城寺の山号に「梨」の字があることが何よりの証拠である。さらにいえば、宝亀・延暦の昔からの地名であれば、鎌倉時代に「内梨子村」などと記録されることはないであろう。
博識で中国の漢籍に詳しい佛海和尚が、龍門の故事に付会したものではあるまいか。また仁聞菩薩については俗に「神か仏か佛僧か」をめぐって、古来数多くの研究があるが、今日の学説では「仁聞が実在の人物でない事は明らかであり、、、」(櫻井成昭・六郷山研究の成果と課題)とするのが定説であろう。
 
(1)府内藩時代(豊府略記より)

下畑、仁田原、上洗、 下洗、うと、八郎迫、大久保、田ノ口
平ノ園、 野地、 勢家、天神谷、御園、蓮台寺、丸山、
仁田尾、船川、板ノ平、中ノ迫、梶原、井ノ向、久保ノ山
古河内、猿山、御申、松葉、椎葉、太郎丸、迫、上ノ園
石上寺、山際、南、宇曽ノ尾、神林、立添、中園、八木谷
鎰掛、詰、おく詰、小平
 (語意・語源)
   下畑〜下の方にある畑。
  上洗・下洗〜洗は㈰新井・新しい川筋 ㈪荒井・暴れ川㈫粗井・崖になった川などを表すが ㈬新居で新村の意もある。
  うと〜ウツ(空・虚)の変化した語。全国的に、崖から洞窟、波打ち際に至る「崩壊地形・侵食地形」を示す用語である。鏡味説は「鈍頂の山や丘」。侵食谷によって残された台地の平坦面を言うのかも。
   八郎迫〜迫は谷地のこと。八郎は人名であろうか。
   大久保〜大きな窪地のこと。
   野地〜やせた土地。焼畑の意。
  勢家〜清・勢はセ(瀬=急)・ヰ(井=川)の意で「瀬になった川、急流」をいう。勢家も勢場もこれに関係する地名か。
   船川〜㈰ウナ(畝・尾根)カワ(側)で尾根、岡のそばの意

(2)クナ(曲)カワ(川)か→くなかわ。
  猿山〜サラ・サリ・サレなどの転訛で断崖の立岩、崖地、突出地を指す。
   梶原〜カジは鍛冶の意という説もあるが、植物のカジノキではないか。
     船のカジ(舵)にこの木を使ったから、舵すなわち「船尾」の木という意味で梶の字をカジノキ、略してカジと読むという。
   御申〜仁聞菩薩が宿った入船屋敷の主が申し上げたという故事。
   仁田原〜仁田は湿地を表す。二田、新田も同じ
   御園〜神社に属する菜園の意。大神峯神社の菜園か。
   太郎丸〜丸は、ほぼマルく一廓をなした地形に名づけられた地名。
       「〜丸」という地名は全国的に多く分布している。鏡味説では
      「いくつかの丸い丘のあるうちの第一番」を太郎丸という。
  詰・おく詰〜きわ・はしの意で境や奥まった所を表す。野津原に上詰・下詰があり同じ語源である。
   小平〜ヒラは傾斜地・急傾斜地を表す。
   石上寺〜現在石城寺のあるところ。
   山際〜山のきわ。山のほとり。山麓下。
   立添〜意味不明
   鎰掛〜本来は「峡崖」ではないか。峡(かい)は急な崖に挟まれた峡谷、
     あるいは山間の盆地の意味。鎰掛の鎰はカギと読み「先端が直角に曲がっていて、錠の穴に挿し込んで扉を開ける金具」をあらわす。神社の鍵の保管者または神殿の扉を開ける役目の人を一般に「鎰取」というが、これに関係する地名であろうか。
  宇曽ノ尾〜(獺・宇曽・宇楚)。獺の棲息による地名もあるが、アトリ科の鷽鳥に因む地名もありうるか。
   神林〜神社に付属する林の意か

(1)明治9年の神社合併願
ヤマノカミ〜大神峯神社のある所
ウラ〜   山神社のあった所
カマノソノ〜明神社のあった所
ヲサキ〜  神明社と稲荷社のあった所
ツルタニ〜 天満社のあった所
テンジンビラ〜天満社のあった所
ナカミソノトトロ〜山神社のある所
ミナミ〜   山神社のある所(詰)
トシノカミ〜   歳神社のあった所(詰)
アラテワキ〜   加久良社のあった所(詰)

(2)明治15年(大分縣各町村字小名取調書)
 
   鶴(御苑、仁田ノ原、下モ旗、勢家、狭間、丸山、船川、山ノ神)

   中ノ迫(的場)
   梶原 (御申)
   山際(石城寺)
   岩水 (中苑)
   勢場 (長田)
   太郎丸
   鎰掛
   詰  (小平、西ノ鶴、原、西)
  (語意・語源)
   鶴〜ツルは津留、水流で平地を表す。
   下モ旗〜下畑、下方にある畑の意。中畑などと同じ。
   狭間〜ハサ(挟)・マ(間=場所)で谷間をいう語。二つの谷に挟まれた地を指す。
   的場〜弓を射る場所。狩場の意もあるか。
   長田〜細長い田。田の美称。高崎にも同じ地名あり。
   西ノ鶴〜鶴は津留、川流で川にそった平地の意。

(3)明治22年の地籍図
アライ ウト  ヲオノコウチ  アライヒラ  ヲサコ ニタノハル
シモハタ ツル  ヒカサコ  ヒラノソノ  テンジンヒラ ミソノ
コガノハル ハサマ  セイケ  ヲサキ  栗ノ木  迫 フ子カワ
中ノ迫  セイハ 中田  太郎丸  園田 ヤケクロ ヲカキ 谷尻
神ノ園  石城寺  コマツタイ ウソノ 丸山  前塚 トタイ  立石  トトロ ヤマキワ イタカヒラ トヲメン オクタ 片平 
梶原  オモウシ 木ノ下 ヲハタケ オモウシシタ  ユワスイ 
カイカケ  フナキ  カイカケノシ  サカイ
 (語意・語源)
   ヲサキ〜山の背筋のさがった先端。ヲ(峰)・サキ(先)の意。
   ヒカサコ〜ヒカ・迫か。
   コマツタイ〜小松・平(台)。松の生えている平地・台地の意か。
  ウソノ〜詰にも同じ地名あり。ウゾ→ウド→ウドノの転訛であるとするのは小野説。筆者は宇曽の尾の転訛とみる。
   イタカヒラ〜イタカ・平かイタ・ガ・平か。いずれにしても平地・台地。
   トヲメン〜銅免の転訛で鍛冶に関る地名であるとする説があり、梶原は
       鍛冶原であるとする。「堂面」は神社などの維持費用に当てるため田租を免ぜられた土地を云う。梶原神社の近くでもあり
       堂面—ドウメンートヲメンと変化したものであろう。
  トトロ〜とどろ(轟)の転訛。動詞トドロク(響)の語幹で「水音の響く所」を云う。方言では滝・急流・淵を云う地方もある。


  (詰地区)
コへヤマ テクチ ナカツメ オクツメ ミナミ ニシノツル タイ
フカサコ ヲヲハタケ ミヤノモト ハル サカイ ヲヒラ キリノキ
ナノメヒラ イテウエ ムカイウソ ウソノ ユワスイ ヲトリハ
 (語意・語源)
  テクチ〜ヰデクチ(井出口)の下略形で「田の水口」「用水路の取入口」を云う。他に出口に当る所を指す場合もある。
   タイ〜平・代の字を当てる。山と山との間の低湿地。
   ユワスイ〜イワは岩・山・硫黄の意あり。硫黄の混じった水または流れ
        の意味か。(小野説)
   ハル〜開墾地・平地の意。
   キリノキ〜キリヤマ(焼畑)・切畑と同じで焼畑から開墾地に近い地名。
   フカサコ〜深迫か。草深い迫のあるところの意。
  ナノメヒラ〜ナカノメは低湿地の中の小島状を指す。ナノメはナカノメの転訛か。(小野説)
  ヲトリハ〜村里を離れた場所で虫送り・亡霊送りをするところの意か。
       オドリバは踊り場で盆踊りに関係ありとの説もある。
  コエヤマ〜コエはクエ(崩れ)をさす、山崩れ。
  ウソノ〜 ウゾーウドーウドノ(藪野)の転訛説は小野説。筆者は宇曽の尾の転訛とみる。内成にも同じ地名あり。


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田代の地名

 「古代人は原野を開いて田をつくったとき、田のある一画を田代とよんだ。 これは自然を司る神から人びとが田をつくるために占有した土地だと宣言するものであった。田代の地名はこのようにして出来た。」という説がある。

  鏡味完二氏は「峡谷を越えて入りこんだ山間の小盆地にある地名で、田をこしらえたところ、すなわち新田または高山の湿地をなす小平地。タシロとは田を開いた所の意で新田とほとんど同じ」であると説く。また丹羽基二氏は「田の料(シロ)、すなわち稲のことで、新田開発して田代を収穫することから開発新田をいう。」と説く。平野よりもむしろ山中に多いが水田適地ということであろう。この他にも(1)水草などの生えている湿地、(2)開田予定地。山間、沢のカツチなどの開田可能地。(3)高山の湿地をなす小平地、(4)田のある所、田地。などの意味がある。全国的にある地名だが東北や九州には極めて少ない。
  田代村の歴史上初見は、天正七年(1579)八月吉日の、阿南庄狭間南方四百貫分覚(甲斐守文書)に「田代村」とみえる。明治八年中畑村・平床村を合併して田代村となるが、中畑村も平床村もともに正保郷帳(1647年)に村名がみえる。

(1) 府内藩時代(豊府略記より)
田代村
 大霜、東、後山、登龍、可佐、久保、田迎、権蔵、うる迫
 原、夜ふ園、田釣迫

中畑村
 中畑、向山

平床村
 平床、 本村、小明婦
 (語意・語源)
  大霜〜しもはシボム地形の意で「大きくしぼんだ地形」を表すとの説がある。
  登龍〜意味不明。登竜門のような急な瀬をいうのであろうか。
  可佐〜かさは笠の意味か。下笠の地名がある。かぶり笠のような地形を云うのであろうか。
  久保〜窪地のこと。
  田迎〜のちには田向と書かれている。向には正面・前面の意味があるので水田に面しているところの意か。一説には田に沿った町屋の意もある。またタは接頭語でムカヒと同意とも云う。
  権蔵〜広辞苑によれば(イ)ごんずわらじ、(ロ)人足、仲仕などの称とあるが、ここは権蔵なる人物に関係する地名か。川向いの朴木地区に権蔵ツルという地名がある。ツルは小平地または小低地の意。
  うる迫〜「うる」は潤・ウルフの語幹で湿地の意。 迫は集落近くの谷地につけられる地名。
  原〜平地のこと。
  夜ふ園〜意味不明。園は神社の菜園地のこと。
  田釣迫〜釣には「上のものにかけて下げる・上のものにかけて持たせる」の意味がある。迫は谷地。
  中畑〜中間の畑地の意で開墾地か。畑作地域に多い地名。
   平床〜広い川床のあるところの意。
  小明婦〜「命婦」には稲荷の神の使であるといわれているキツネの異称
      の意があるのでそれに関係ある地名か。

(2)明治9年の神社合併願
 大下〜  山神社、現在の田代神社のある所
 ミヤノ〜 龍神社のあった所
 ツル〜  天満社のあった所
 宮ノ元〜 水神社のあった所
 コザコ〜  龍神社のあった所
 川上〜   天満社のあった所

 (3)明治15年(大分縣各町村字小名取調書)

   平床 (小明婦、向山)
   大下
   平
   中畑 (立平、名子山)
   田向
   風呂迫
   堺
   城司
 (語意・語源)
   立平〜立ては険しいことで、険しい台地・坂道の意
   名子山〜ナコは「小平地」、ヤは湿地、マは間で場所。湿地のある小平地または台地の意味になる。
   堺〜 境界、区切りの意。
   城司〜ショウジの転訛か。㈰岩壁や光峰を障子に見立ててつけた名。
     ㈪精進潔斎をした所。㈫荘園の管理に従事した「荘司・庄司」に因む名か。
   風呂迫〜フロは浅瀬で水の温むところ、「水が温い、浅瀬のある谷」の意。
      鏡味説は「フクロと同意で袋迫という意味になる」とする。

(4)明治22年の地籍図
赤迫 大下 大苑 堺ノ谷 ナコヤマ  ナカ  ムカイ マツハラ
コニヨフ 向山  田向  コンソウ  ハル シモタイ カミタイ
フロノサコ センホウ 平  山ノ下
 (語意・語源)
   赤迫〜赤土の多い小さい谷、または湿地の意
   大下〜大きくしぼんだ地形の意か、大霜の転訛したものか
   大苑〜大園と同じで菜園を表す。神社の所有した菜園との説もある。
   堺ノ谷〜堺は境で、村境の谷の意か
   ナコヤマ〜名子山とも書く。湿地のある小平地の意
   ナカ〜那賀・那珂と同じ意味をもち、土地を表す
   コニヨフ〜小明婦の転訛したものか
   フロノサコ〜風呂迫とも不論迫ともいう。

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来鉢の地名

来鉢の地名の初見は乾元2年5月(1303)、豊後国阿南荘松富名半分新田畠実検帳案に「一来鉢井窪分」とみえる大友文書(県史料26)である。
 この中に「ふちた・おとし・くちら・おき・くわはら・たのひら・あかふち・なへ・きたかわ・みやかわ・くゑふち」などの地名がみえる。来鉢の語源は地形が鉢状、すりばちのような形をしていることに由来する自然地名か。地名用語語源辞典によれば「㈰クマ・チ(接尾語)の転訛 ㈪クボ(窪)・チの意か」とある。旧村級では全国でもう一つ宇佐郡来鉢村がある。現在の宇佐郡院内町大字来鉢で地名の由来は「駅館川の上流、恵良川の最上流部。西椎屋の滝の下流の西椎屋地区の対岸で、耶馬溪溶岩の崖下にすり鉢の縁に階段耕作の水田をもつ集落。」(大分百科事典)とあり、要するに鉢状をなす地形に基づく地名という。石城川の来鉢も地形に基づく自然地名ではあるまいか。

梅木秀徳によれば「県下に八久保(ハチクボ)というのが三十ヵ所ある。ハチの発音を持つものでは、ほかにハチ久保七ヵ所、蜂久保三ヵ所、鉢久保十一ヵ所があり、臼杵市乙見に擂鉢久保がある。つまり鉢のような凹地のことで、八久保も蜂久保も鉢形の窪地が起源である。」(大分の地名)

来鉢地区には金亀和尚にまつわる「来鉢由来伝説」がある。雉城雑誌・和尚権現の項に「天正七年三月三日ノ夜、宇佐八幡菩薩ノ神勅ヲ得テ、空鉢ノ法ヲ修行シ、神明垂迹ノ因縁アラン地ニ留リ玉フベシ迚、哭願アリテ、跡ヲ追ヒ、当国ニ来玉フノ所、空鉢此所ニ止ル。因テ来鉢村ト号ストゾ。当村其以前ハ楠村ト称シタル由也。」とある。天正は天長の誤りである。

一方、来鉢神社由緒(加藤照廣氏解説)によれば「貞観十年六月十一日(868)、金亀和尚が比叡山に帰るに際し、鉄鉢を空中に投げ、この鉢の落ちた処が我が死後霊魂の安ずる所なりと言った。この空中に投げた鉢が蛙ケ原の武内宿禰命の社地に落ちた。和尚は翌年十一月十一日、比叡山で亡くなったので、柞原神社は特使を派遣し、武内社の相殿に合祀し、社号を権現と改称し和尚権現・和尚社と呼ばれた。また蛙ケ原の村名を来鉢村と改めた。」とある。鉄鉢は宇佐神宮から天長七年に投げたものと、柞原神宮から貞観十年に投げたものと二説が混同されている。   これに関連して大分縣教育會が昭和6年に編纂した「大分縣郷土傳説及民謡」には「(21)鉢石 昔柞原に金亀和尚といふ人があった.。非常な信仰家で、特に宇佐八幡を信仰し毎月月参りをして居った。和尚吾が霊の鎮まる所を鉄鉢を以て占はんと西に向かって投げた。之が石城川村の森に落ちた。而し此の地意に満たず、再び投返した所、現在の鉢石に當り鉢の型を止む。後來之を鉢石といひ伝へてある。石城川村来鉢の森に、其の鉄鉢を記念する為めに和尚様を祀る。之が現今の和尚様であるといひ伝へてある。其の鉢石は八幡宮参道の側にある。金亀和尚は、人皇第五十三代淳和天皇の御代であって、比叡山の僧である。
(出所・大分郡八幡村柞原三重渡)」とあり、金亀和尚の投鉢伝説は多様である。伝承の面白さであろう。

また「来老」(来鉢老人クラブ編)の古老聞き書きによれば「八の窪 これは金亀和尚が比叡山に帰るとき鉄鉢を空中に投げたが、このとき投げた鉄鉢の破片が八つにとび散って、それぞれの破片の落ちた所が窪地になったという。これが八の窪である。現在2ヶ所比定地がある。」と地名の由来を解説している。このように金亀和尚の投鉢伝説は来鉢地区にいろいろな形の伝承を残しているが、来鉢住民にとってそれだけ金亀和尚が身近な存在
であったのであろう。ところでこの超人的でかつ非現実的な「わざ」である空鉢の術について文献を紐解いてみる。
吉田東伍の名著「大日本地名辞書」の第5巻に「米山薬師堂  米山寺縁起の伝ふる所は、昔越智泰澄法師此山に修行しけるに、出羽の国人神部清定の船、米苞を積載せて此海を渡りしに、泰澄鉢を飛ばして、其糧を乞ひしかば、満船の米苞飛揚して山に上りぬ.。故に米山と名づけ其崎を鉢崎と云う云々。是は播州法華山寺の縁起をうつしたるにて、固より無稽の話のみ」とあり、越後の米山寺の縁起を紹介している。それではこの原本とされる播州法華山寺について「元亨釈書」をみてみよう。
「法道仙人者、天竺人也、一時乗紫雲、入吾日域、下播州印南郡法華山、其
 山八朶、故為号也、所持道具、千手大悲銅像、仏舎利法鉢而己。余無長物、道常飛鉢受供、州人称空鉢仙人、生石大神、請置鉢干石上奉供、其地今尚
 号空鉢塚、在神祠西南、大化五年、上不予、召道加護、道入宮持念、玉体平復、道帰山、勅於山中建大殿、安所持観自在銅像、及仏舎利宝鉢、白雉 元年落成、上幸寺、後放大光飛入雲中、道多営精舎、諸州往々而在。」
このことは宇治拾遺物語第八巻に第三話「信濃国聖の事」として記載されていることから考えると、投鉢・飛鉢伝説は同工異曲の話が多くあり大変流行した時代があったのであろう。宇治拾遺物語は鎌倉時代、1212〜1221年頃の成立とみられている説話集であり、元亨釈書はそれよりのちの鎌倉後期、元亨2年(1322)虎関師錬が著した仏教史書である。同書が僧侶の間に広く読まれ日本全国に伝播したしたことは疑いを容れない。金亀和尚にまつわる来鉢の地名伝説は典型的な例の一つであろう。
  それはともかく来鉢の地名には地形からくる窪地・湿地を表すものが多い。

㈰ 府内藩時代(豊府略記より)
   古園、無田、竹ノ中、一ノ原、板屋平、袋、鬼塚、杉ノ木、      
   辻、法師園、小影木、中園、竹ノ上、目ノ子迫、荻ノ尾、
   なら山、くぬぎ山、綿田、芦松、影ノ木、下来鉢、平石、
   底津留、西鍋、久保津留、丸田

(語意・語源)
 古園〜園は神社の菜園を指す。
無田〜湿地、泥田で牟田と同じ。柳田国男によれば「ムタとは水が溜まってその儘では水田にならない所を人工を加えて水田にした地名である。」(地名の研究)久住の千町無田も同じ語源である。
 袋 〜袋形の低地、低湿地の意。袋尾とも云う。
 鬼塚〜㈰鬼に因む伝説のある塚㈪ヲネ(尾根)ツカ(塚)で高いところの意。
 影ノ木〜影は日陰、木はキで土台、棚の意。日光がささない所(小野説)。
 竹ノ上〜竹は崖で、高いところをいう。
 目ノ子迫〜「めのこ」はおんな、おみなのこと、転じてやさしい迫の意か。
     広辞林では「目の子〜めのこざん」とある。
 なら山〜自然地名
 くぬぎ山〜自然地名。
 綿田〜 ㈰ワタ(渡)・タ(処)という地名 ㈪綿花を栽培する田の意。
 西鍋〜鍋のような地形の意。
 辻〜 交差路
 芦松〜㈰アシ(悪)、マツはうしろ、奥で「交通の困難な奥まった所」の意。
    ㈪山の裾、麓の意もある。ここは㈪が相応しいか。
 底津留〜津留は川流に沿った平地のことで,由布川に沿った低い平地の意。
 久保津留〜窪み状になった平地のこと。由布川の川流に近い所。
㈪ 明治9年の神社合併願
カウスキ〜玉垂社のあった所・中園、コヲスキの書き誤りか
天神前〜 天満社のあった所・下来鉢
丸田〜  御中主社のあった所・今の丸田
コヲスキ〜歳神社のあった所・カウスキと同じか
 神社合併願には「右三社字コヲスキ玉垂社江合併」と記載されている。
「来鉢神社沿革」(加藤照廣氏)によれば、来鉢村にはこのほかにもこの時に取消しされた社が次の通り4社あった。
ヤジロウ〜金刀比羅社のあった所・西辺
ツル〜  貴船社のあった所・下来鉢、影ノ木に2ヶ所あり
マエ〜  歳神社、山神社のあった所・下来鉢のツルの西隣
ゴズ〜  御座八幡社のあった所・影ノ木の公民館北側

なおまた来鉢神社「由緒資料」の中に「金光寺書類」があり「延暦寺の上人金亀和尚が字テラトコに堂宇を創建し、金光寺と称したという。字テラトコの地は芦松の背後の山腹、ミミズ谷に臨む地域一帯で、今この界隈に鉄牛禅寺がある。」とのことである。
   
㈫明治15年(大分縣各町村字小名取調書)
 西辺 
 中苑 (竹ノ上、猪ノ久保)
 鉢ノ久保
 辻 (市ノ原)
 無田 (竹ノ内)
 目ノ子迫(藤田)
 袋
 萩尾 (平原、椚山)
 芦松 (矢櫃)
 影ノ木
 下来鉢 (古苑、上屋敷、今在木)
 丸田
(語意・語源)
 西辺〜西鍋の転訛
 鉢ノ久保〜久保は窪地のこと.鉢のような.凹地を表す。
 今在木〜今在家の誤りか。荘園地名の一種。
 矢櫃〜崖に挟まれた凹状の地を示す語。または矢櫃に見立てた地名か。

㈬明治22年の地籍図
  フクロヲ、ヲギノヲ、ヲトシ、フ子、フジタ、メノコザコ、サヤ
  小川ノ上、クヌギ山、ヲワサダ、ムタ、辻、マイノハル、下来鉢、
  ナカゾノ、カゲノキ、ノダクボ、アシマツ、シバヲ、ハイザコ、
  ドヲゾノ、上ノツル、トビカス,  ニシナベ、タカヒラ、ヤビツ、
(語意・語源)
  ヲトシ〜乙字形に曲がったところの意。その崖を指すことが多い。
  ハイザコ〜岩のごつごつした迫の意。ハイは岩・灰を表す。
  サヤ〜「鞘・幸・佐屋・佐谷・佐野・小夜・道祖」などと書く。
サ(狭)・ヤ(萢)で湿地、狭い湿地を言う。本村の近くに開墾した分村の意もある。
  ヲワサダ〜早稲の田の意か。
  ノダクボ〜ノダは湿地、クボは窪地。湿地の中の窪地の意。無田と同じ。
  マイノハル〜マイは舞で「舞の原」の意という説あり。お宮の祭事やご神幸のとき、ここに仮御殿があって神楽を舞って奉納していたのでこの名がついたとは地元の古老の話。マイはマエで「前の原」ではないかの説もある。
  トビカス〜意味不明。
  

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七蔵司の地名

 ななぞうしは「七蔵司・七曽子・七曹子・七蔵子」と多様に書かれているが 「なな」はナナオ(斜尾)の略、「ぞうし」は「そうれ(焼畑)」の転訛で、山麓の焼畑の意であるとの説がある。同音で速見郡には「七双子」村がある。
 現杵築市八坂で有名な七双子古墳のある所である。国学者物集高見は「(奈良佐宇之)は七蔵司の訛で昔七石庫に珍宝を蔵した跡であろう」と言っているが石城川の七蔵司はどうであろうか。
 いずれにしても意味・語源は不明である。律令時代に大宰府から豊後国府にいたる官道・長湯駅〜高坂駅間のルートが七蔵司村を通っていたとする有力な説があり、古い歴史をもつ由緒ある村であると思うが、歴史資料上の登場は遅く江戸初期の「正保郷帳」にはじめて登場しているのは不思議である。

(1) 府内藩時代(豊府略記より)

(イ)七曾子村(元笠和郷十六ケ村ノ内)
 都原城、 椎山、 原ノ平、上、 後迫、市伊木、梁入田、瀬戸
 大井、 東、 西、大久保、新屋敷、園
 (語意・語源)
   都原城〜妻城とも書く。ツマは端・奥・隅の意、ジョウは山城で「端の
    砦・奥の砦」の意味か
   後迫〜後の谷の意
   市伊木〜イチヒ(櫟)のあるところ。庄内町の櫟木と同じ。
   梁入田〜のちに家内田→ヤナイカタと変化する。意味不明。
   瀬戸〜谷間・両側から山の迫った狭い谷。谷間の狭まった所。
   大久保〜大きな窪地
   新屋敷〜近世の分村集落名。新たに屋敷地とした所。
   園〜菜園地。
   大井〜オホ(大)・ヰ(井・川、水路)という地名。
  
(ロ)山口村
 瀬戸、龍尾、木ノ後、屋形、米山、木戸、立射地、御園、 曾尻園
 奥、 場治郎
 (語意・語源)
 山口は山・森林への入り口の意で宰水神が祀られることが多い。
 龍尾〜タツ・ヲで高くなった所をいう。
 木ノ後〜木は城で、城または柵の後の意
 屋形〜高崎山城に関係する地名か。中世豪族・武家などの居館の意。
米山〜円錐状の米を盛り上げたような形を指すが、「豊作を祈願するために使った丘陵性の祭場」の意もあるとか。白米伝説に因む地名だとすれば大友時代後半の比較的新しい地名となるが。
木戸〜キ・柵とト・門で柵に作った門、城門。関所の門の意。高崎山城に関係ある地名か。
立射地〜タテイデ・のちに立出と変化する。小野説では丘陵の端で、飲料水の確保がしやすい土地となる。出は水路の意とか。
御園〜神社に属する菜園の意。内成にもある地名。
曽尻園〜曽尻の意味不明。園は菜園地。
奥〜 深く入りこんだ所。沢などの上流。
場治郎〜のちにハシロ・馬城とも書く。近接の高崎に太治郎の地名がある。治郎は城の濁音ではないか。染矢多喜男氏は馬城をマキと読んで牧場の意と説く。

1)明治9年の神社合併願
 仲園〜 山神社(七蔵司)のある所
 タニ〜 山神社(山口)のあった所
2)明治15年(大分縣各町村字小名取調書)
  妻城(落合、ヤナバ、ヲカタ渡リ、徳堂、イノムカイ、上ハツル、イノモ
     ト、ロンチバ、女良カホキ)
  後迫(カゴスへバ、ニシヒラ、ソヲヅ、ムカイビラ、亀ノ石)
  
家内田(ハサマタニ、ミミズダニ、ムカイヒラ、ウシノ子バ、小畑、ナカダイ、四良迫)
三保田(渡リケ元、穴井ノ久保、長久保、三ツ石、鳥越、センドガ畑、フスベノ、ワロヲガタ、丸畑、セニガメ、タカツクミ、酸?鬼畑、カヤワラ)
  大久保(ノグロ、河内、クワンノンバタケ、ナカゾノ、堂面、ジバ)
櫟木(ケサノマエ、タノキビラ、コマチボリ、久保苑、エノキガモト)
馬城(押戸、堀田)
山口(下谷、穴井ノ前、クチキノモト、堂面、平原、ハチクヤマ、下田、ウバガトコロ、内河内、垣外、センタクホ、仏ノ尾、大野地、腰ケ谷、ナカヲノ、ツジ、シモノジ)
米山(高平、白ハケ、ツツラワラ、金山、クスカヒラ、ウソ、大将軍、峠、
     酸?鬼畑、カヤハラ、シイノテ、フキアケ、三枚田)
木ノ後(ウマタテバ、ジンノダイ、シズノモト、湯舟、ハバリガワ、立石久保、フジカミ、ドヲトコ、瀬戸口、峠ノ辻、弐里木)

(語意・語源)
 ヤナバ〜ヤナ・バで㈰柳の木の植生による地名 ㈪畑の縁の斜面の意
 ロンチバ〜論地場か。㈰境界、水利権等が論争の対象となった土地。
             ㈪提防、田畑の畦畔。㈫ドンダ(泥地)の転訛。
   カゴスエバ〜カゴは古語のコゴシの語幹・コゴの転訛で岩、岩壁、崖などの険しい地形を指す。スエはツエ(崩)、バは(場)。
   ソヲヅ〜泉、清水の湧き出る所。詰の綜津川と同意。
   三保田〜ホ(秀)・タ(処)で水平方向に突き出した所をいうか。小野説はミホ→ミヨ→ミオ(水尾)で水溜まりの意という。
   センドガ畑〜セ(背)、ノ、トウ(峠・山頂)で山の上の畑の意か。
         兵庫県の方言では墓地という意味もある。
   フスベノ〜フスベは「イボ・瘤」の意の古語で「瘤状に盛上った地」。
 酸漿鬼畑〜「ほおずきばたけ」は三保田と米山にある。以下は米山についての伝承である。
   「(24)高崎山の落城と孝女の話
    (此の口碑は、提出者が幼少の頃、母から聞いた話である。母は天保年間に生まれた人で、郷家を<高崎>と称し、其祖先は大友氏に従い、武功あって高崎姓を戴いたといひ、昔は高崎山附近に其領地があったとさへ云って居ました。此口碑も同家に言ひ伝えられたものと思われます。)
昔大友氏が高崎山に、城を構へて居た頃、敵軍のため囲まれたことがあった。此時城中には水が欠乏して、今や落城の運命に陥ろうとしたとき、ある白髪の老女があって、山下から毎日水を汲み上げて呉れたので、軍兵等皆渇をうるほすことが出來た。所が此老女は敵の間者であらうということで、終に殺されてしまった。そこで城中
にはいよいよ水が無くなり大に困った。けれども敵に其事を悟られては、甚だ不利であるから白米を水と見せかけて、山上から流したが遂に支へることが出來ないで落城した。後世、此山に野生の酸漿のあるのは、此白米が化して生じたのであるといふ。
(大分縣郷土傳説及民謡・昭和6年大分縣教育會編)
    クチキノモト〜クチキはクヅ(崩)、キ(接頭語)の転訛で崩壊地形。
    ウバガトコロ〜㈰ウバは岩または崖地を言う(松尾説)
          ㈪ウバガフトコロのフが抜けた形。自然に風を防ぎ南面して日当りがよく乳母の懐にいるような地形の所を言う。
    センタクホ〜セマ(挟)、タ(処)の転訛。狭い窪地のこと。
    大野地〜野地は痩せた土地のこと。
    白ハケ〜ハケは崖、山の斜面の崩れた所。白は接頭語か。
    ツツラワラ〜ツヅリ(綴り)と同じく「重ね合わせた地形」の意か。ワラは原。段差のある所をいうか。
    クスカヒラ〜楠の生えている原の意か。
    カヤハラ〜(茅・萱)・原で草原の意味か。
    シイノテ〜ノテは野手で広い原、椎の木が生えている広野か。
    フキァケ〜吹上で風が吹上げる高みの地形。遠望の利く所。
    ウマタテバ〜㈰立場、建場で馬を繋ぐ場所 ㈪近世、宿場の間で馬や駕籠の休憩、引継ぎを行った所。
    ジンノダイ〜陣で兵営、陣営、陣地、陣屋などが置かれた地をいう。また合戦が行われた地を指すか。ダイは台。
    シズノモト〜シズはシミズの転訛で清水の湧き出る所、泉の下の意。一説にはシヅ(垂、下)で垂れ下がった状態をいい、断崖傾斜地をいうとも。
    ハバリガワ〜ハバリは小石、砂利の意。
    フジカミ〜フジは縁(フチ)又は淵(フチ)の濁音化で淵の上。小野説ではフシは柴の生えた痩せた土地の意になるという。
    弐里木〜府内からの距離が弐里であるとの里標。石碑が現存している。
堀田〜㈰新たに開かれた土地・新田。㈪私的に開いた地・へそくり田・隠田㈫小規模な開墾で極く小さい田。

(1)明治22年の地籍図(図面参照)
 ツマガジョウ  ウシロサコ  クボノソノ  ハシロ 東 イチギ
 大久保  トウメン 山口  ベンテン ウチカワノ 下谷 平原
 カヤワラ ヤソヲ 大下 ユフ子  立石久保  フシカミ セト
 フモト  ウソ  銭亀  タカノス  中原  ヤナイカタ 小畑
 向平  四郎迫  立出  ミヨタ  城ノ坪  コシノ
 (語意・語源)
   クボノソノ〜窪地の中の畑の意。
   ハシロ〜  場治郎—馬城と変化してハシロとなった。マキとも読める。
  トウメン〜堂面・道面を当てる。神社などの堂の経費を維持するために田租を免じられた田地のあるところを「堂面」という。山神社のある所なのでおそらくこの意味であろう。ドウメンからの転訛。別に「銅免」で鍛冶に関係する地名とする説もある。
  ベンテン〜弁財天のあった所の意か。
  ウチカワノ〜入り込んだ谷や川岸の意。高崎にも同じ地名あり。
  下谷〜   下方にある谷の意。
  カヤハラ〜茅の生えている所。
  ヤソヲ〜「日かげのある谷間、背後の湿地」の説あり。
  大下〜 オオシモと読む。田代にもあり元の字は大霜であった。
  ユフ子〜ユフネと読み、高崎にもある。温泉に関係する地名。
  フシカミ〜フシは柴の生えた痩せ地を云うとの説あり。
  フモト〜麓の意。
  ウソ〜「崖下・山崩れがあった土地」説あり。鷽の住むところの意も。
  銭亀〜亀は瓶に通じる、銭には狭い場所の意もあるという。
  タカノス〜鷹が巣を造るようなところの意か。
  ヤナイカタ〜梁入田→家内田→ヤナイカタと変化している。
  四郎迫〜四郎は城・白の当て字で「城に近い谷」または「白い谷」の意
味であるとする説あり。高崎にも同じ地名あり。
  立出〜立射地の転訛ではないか。タテイデと読む。
  
  城ノ坪〜坪は庭の意で「砦の中の土地、城内・砦内」の意か。高崎城に因む地名であろう。

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豊後国高坂駅の所在

  先にふれた「早馬出」に関る古代の駅・高坂駅についての伝承に関連して大分市歴史資料館長・木村幾太郎氏の説を紹介しよう。
「大宰府から豊後国国府への官道は現在までの研究で、地形・自然条件等によって幾つかのルートが推定されているが、確実なルートが判明している訳ではない。その幾つかのルートの一つに、銭亀峠から高崎山南麓を降りるルートのうち、挾間町高崎に降りるルートがある。他に七蔵司を降りる道、城ノ腰から机張原へ下り尾根上を上野台地まで(途中、永興附近で羽屋古国府方面へ降りる道も可能)のルートが推定されている。この、高崎に降りる道は高坂の地名の由来ともなりうる長い坂道が続いており、坂道が終わり平坦になった所が高崎である。さらに一段降りて、更に国府に向かうと宮苑遺跡があり、東院(とい・国衙推定地の一つ)がある。高崎も恐らく高坂に近い意味もあり、音からしてもTAKASAKAがTAKASAKIに変化すること(A→I)は十分あり得る事であろう。
駅は30里毎(現在の4里ほど)に置くのが目安とされており、この高崎から長湯駅(現在の別府市内)まで3里21町、丹生駅(松岡附近推定)まで4里となり、高坂駅と丹生駅との丁度中間に国衙が位置し、距離的には十分説得力がある場所である。松岡附近に推定した丹生駅も附近に牧と云う地名が残る事も有力な根拠の一つとなっている。高崎の場合は、旧高崎村には牧のつく地名は無いが、隣の宮苑にアラマキと云う字名があり有力
な材料となる。しかし、本地区は遺跡地図にはノーマークで、現在では圃場整備が終わっており、残念ながら考古学的証拠を今から得る事は出来ない。高坂駅の有力な候補に止まらざるを得ないが、上野丘陵上よりは可能
性が高いと考えられる。」(高国府・勝津留考、「付論」高坂横道と高坂駅)
従来の一般説では高坂駅は国衙に近いところ、すなわち古国府附近に比定する向きが多かったが、駅が国府に近いところになければならないという事由はない。むしろ駅間距離30里の方を重視するべきとは筆者も同意見。
高崎村の中にマキのつく地名はないが、近接する旧山口村に「馬城」という地名があり、染矢多喜男氏はこれを「マキ」と読んで牧場の意に解している。それにもまして「早馬出」という文字通り古代の駅の代名詞的な地
名が残っていることは極めて有力な比定材料であると筆者は思っている。
万葉集の巻十四・3439に
    鈴が音の早馬駅家の堤井の
           水をたまへな妹が直手よ
                         東歌
がある。「早馬駅家」は「はゆまうまや」と読み、早馬を準備してある駅という意であると,斎藤茂吉は解釈している(万葉秀歌下巻)。
古代律令制の国家体制の中で官道がその機能を果たしえたのは、せいぜい100年に過ぎないといわれているが、近畿を起点として全国に張り巡らされた官道には多くの「早馬駅」が置かれていたのは紛れのないことであ
ろう。その中の一つ「高坂駅」が「早馬出」の地名をもつ挾間町高崎に置かれていた可能性は、いまや単なる伝承の域を越えて歴史学的に研究されるべき対象となったといえよう。
古代の官道・豊前道が石城川村を縦貫していたとする有力な説がある。また豊後道も由布川村を貫通していた可能性は高い。このことは拙稿・石城川村と道(歴史資料、石城川村P8参照)に詳説している。いずれにしても今後の研究に待ちたい。

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高崎の地名

 高崎の名称は高崎山に由来する。「太宰管内志」は「多加佐岐とよむべし。名ノ義は高キ山ノ出埼有ルによれり」と記している。
  高崎の地名が歴史上に初めて登場するのは永享五年(1433)である。
  大友持直知行預ケ状(大分県史料31)に
  「高崎一所三拾七貫分   高崎又五太郎跡 」     とある。
  また、嘉吉四年四月五日(1444)に高崎尾張守棟治が由原宮に対し金亀和尚の御供田として、高崎村畑分二反を寄進した。この畑は「由原下馬林道越」の所であるとみえる柞原八幡宮文書の記事がある。(大分県史
料九)  このときには既に「高崎村 」が成立しており、その範囲も「由原下馬林道越」すなわち現在の「机張原・下馬ノ木」を含んでおり、机張原地区は高崎村の内であったことがわかる。このように比較的古く高崎の地名が史料に出てくる。
  伝承によれば安元元年(1175)左近亮又五郎なる者が石堂に居住し御霊社を建立、その子常陸のころ高崎村が誕生したという。御霊社の鍵取佐藤家に伝わる系図にも記載がある。筆者の調査では大友能直の六男・時景の庶子、一萬田次郎忠能が高崎に土着して高崎氏と号した。時期は1260年代、弘長・文永年間と考えられる。前記の高崎尾張守棟治はその子孫である。高崎の地名はそれ以前に出来ていたであろう。(拙稿・大友支族豊後高崎氏について参照)

㈰ 府内藩時代(豊府略記による)
高崎村
  石堂・後村・水毛・本村・北ノ園・古殿・太治郎
  
 新村
  大迫・女狐
  
 (語意・語源)
  石堂〜石神信仰に因む地名。集落内に石祠が点在している。
本村〜のちの表のこと。組村の中核となる村、多くは惣庄屋の所在する村をいう。また枝村・新田・新村・小村に対する親村と同義に用いられる場合もある。ここでは分村で新村ができた時に区別する為に出来た地名。
水毛〜見付で高崎氏館の見張り処の意。
太治郎〜大友時代・高崎氏の館、屋敷跡。のちにタシローまたはタジロと呼ばれるようになる。治郎は城の濁り音・ジロではないか。
古殿〜古い園で宮苑に続く柞原宮の菜園地の意。
北ノ園〜古殿・宮苑と同じく柞原宮の菜園地。
後村〜位置指示を持つ地名には「前・後・表・裏・上・下・高・低」などがある。一般的に集落の北側が「後」であり、南側を「前」と呼ぶのが通例とみていい。ここの場合、「本村すなわち表」に対する後村という意味になる。「表」は「前」と呼ばれるべき地名である。
   御霊社の境内に四基ある石灯篭のうち最古のものに「元禄十四年辛巳年六月二日 後村」の刻がある。元禄十四年は西暦1701年に当り「赤穂浪士討ち入り」があった年でもあるが、「後村」を確認できる最古の史料である。
大迫〜迫は湿地、小さい河谷の意味がある。大きな湿地の地形の意味か。
女狐〜メハルと読むが地元では古くからメハズ(一説にメハスとも)が正しいという伝承がある。語意・語源不明。
   「目歯頭」(めはず)がよくなる神様をまつる小祠があって、それに因む地名ではないかと、筆者は別府市北石垣にある「メハズ」の例から推定している
女狐の村社に保管されている最古の棟札に拠れば、享保11年(1726)「願主葛城助右衛門」によって創建されたと記されている。この葛城助右衛門は女狐集落開設の中心人物で、高見家と葛城家3軒の計4軒が東院から移住してきたのに始る小集落である。この地区を古くから柞原神宮—千代丸—東院—阿南郷衙の道が縦断していたと筆者は推定しているが、千代丸から女狐に登る坂はかなりの難所であり、狐・狸も多かったといわれている。誰か風流好みの粋人が「目歯頭」に女狐という優雅な、しかし意味不明な字を当てたのであろう。高原三郎は「大分市机張原女菰(めはり)〜はりは墾(はり)か」と「大分の地名」に書いているが、「めはる」を「めはり」に変え、女狐を女菰とするようでは独断といわれても致し方あるまい。異説としてあえて紹介しておく。狐は狸と並んで人を化かすといわれてきた。小玉洋美は県下各地に残っている狐に化かされた話を検討して「狐は女に化ける。道連れになって歩き、化かした元の所へ連れもどす」というのが多いといっている(大分県の民俗宗教)。女狐の地名に関係あるのであろうか。いずれにしても難解な地名である。
 
この頃はまだ机張原は開拓されておらず大迫・女狐は新村に属す。新村は文禄三年(1594)早川長敏領の記録があり、江戸初期には村として高崎村から独立していた。

(1)明治9年の神社合併願
明治九年に第3大区22小区(のちに石城川村となる)は神社合併願を大分県令森下景瑞に提出するが、その中に神社の所在地として5つの地名が記されている。
ホキノウエ(御霊社)〜石堂川が大きく蛇行して崖(ホキ)を作っている、
           そのホキの上の意。現在の新貝。
ワカミヤ(若宮八幡)〜表にあり、宮ノ辻または宮の下とも言う。
キフ子 (貴船社)〜 北ノ苑にあり。きふねと読む
ドウ子ニ(秋葉権現)〜表にあり、道寧寺の転訛したものであろう。
           どうねじと読む。
イナリ(稲荷社)〜表にあり、惟福寺の境内にあったとされているところか
ら、現在の惟福寺辺をイナリというのかも知れない。
  
(2)明治15年(大分県各町村字小名取調書・、東京大学史料編纂所蔵による)

表(水ヶ・古殿・林口・三ツ又・蛇石・下ノ原・堂ノ尾・堀外・楠平・宮ノ辻・越ト)
北ノ苑(河原田・落合・馬ノ瀬・押戸・打越・瀬戸口・仏ノ尾・腰ヶ谷)
高平 (ヨヲセシツカ・百番石)
石堂 (後・トヲミガウ・四良迫・大平・用着・葉山出)
焼野 (水神森・コヲラコヲ・トヲトコ)
長田 (平山・鳥越)
瓦ヶ郷(タカヅコヲ・トヲコヲボヲヤマ・上谷・中尾刎)
新村 (北平・田ノ口・上野地・南平・大迫・寺林・鷽ノ谷・田ノ口林・一ツ石・刎木戸)
吉兆原(エンノキヨヲジヤ・ヨコイ・百間馬場・女狐裏・百田・芥神・下馬ノ木・五反田ノ久保)
女狐 (セメクホ・ニシヒラ・ウチコシ・井戸尻・南平・穴井ノ久保・菅田原・諏
訪ノ辻・高ホキ・水神森・桜平・アカマツヒラ・ヒライシヤマ・マエタ二
クホ)
 (語意・語源)
  表〜 前出の後村の項参照。通常集落の南側を「前」と呼ぶ。本来は前と
     いう地名であるべきところを「表」としたのであろう。
  堀外〜「懇(ほり)の内」で豪族屋敷(高崎氏屋敷)のまわりの意。
越ト〜越は尾根を越えていくところ・トはトウで峠、すなわち峠を越えて行くところの意である。「駄つなぎ場」とも言われている
仏ノ尾〜 ヲは峰で、仏様あるいはお地蔵様を祀っている峰(小野説)。
   動詞のホドク(解)の転訛で「とけ離れる」の意から崩壊地形を表すとの説もある。
堂ノ尾〜塔尾(トウオ)の転訛。トウ(高くなった所)・オ(峰)で同義反復の地名。
腰ヶ谷〜谷の険阻な所。懸崖、崖、急傾斜地の意。関連して「城の腰」は豪族の本拠を囲む家の子郎党の住む集落の意味がある。
用着〜用作と同意で、士豪の手づくり耕作地を指す。用尺・夕尺も同じで
   この地は「ゆうじゃく」と呼んでいる
トヲミガウ〜トヲミはドウメキと同じで、水音の響きに因む地名。
      ガウはコウ→ゴウで荒れた土地。崩落地を指すか。
葉山出〜語源は早馬出(ハユマデ)でハヤマデに転訛して葉山出の字が当てられた。通称はハイマデ。伝承では常時馬を4〜5頭置いた宿場という。(高崎今昔記)古代の高坂駅に比定される地名である。これについては後に詳しく述べる。
鳥越〜鳥が決まって飛んでいく高いところの意。「尾根の中で決まって鳥の
群が通過する低まったところ」の意味もある。
  焼野〜焼畑農業の名残。昔牧草を育て野焼きをしていたらしい。
  コヲラコヲ〜コヲラはゴウラと同じで、小石のゴロゴロしているような所。
        コヲはコの長音で接尾語、「処」で場所を表す。
  トヲトコ〜トヲはトウで峰・尾根。トコは床で地盤・川床・尾床を表す。
  タカヅコヲ〜タカ(高)・ツ(接尾語)・コヲ(処)で高所の意。
  トヲコヲボヲヤマ〜トヲはトウ(山頂)。コヲ(処)、ボヲはボボヶルの語幹で「そそけ乱れた様子」→崩壊地形を表す。
  下馬ノ木〜「下馬林道越」を引き継ぐ古い地名。嘉吉四年四月五日(1444)高崎尾張守棟治が由原宮に金亀和尚の御供田として畑二反を寄進したがその土地が「下馬林道越」である。机張原に「下馬の木」があり隣接の金谷迫に「下馬の下」がある。
「下馬」は㈰下馬先の略で社寺の門前・城門の手前などの下馬すべき場所のこと。㈪キハ(際)、ケバ(毳)に通じ「ケバ立った様子、はっきり目立った様子」をいう。ここは地形からみて㈪が相応しい。
  菅田原〜スゲタハラという。すげの原野か。
  エンノギョウジャ〜役行者の祠がある所。放生池の傍の四差路にある。
  吉兆原〜机張原のこと。机張原の開拓に着手した安政二乙卯年(1855)
の文書には「吉兆原」となっており、安政六年(1859)に完成した溜池は「吉兆原堤」である。明治15年の「大分県各町村字
小名取調書」でも「吉兆原」で読み方は「キチョウハル」である。
大正六年に編纂された「石城川村郷土誌」に「机張原溜池」として「机張原」の字が出てくる。
  
 
(3)明治22年の地籍図(地図参照)
  フルトノ・ヲモテ・タシロウ・北苑・ウシロ・平田・新貝・コエトウ・仏ノヲ・内河野・石堂・アリクヒ・ユフ子・高平・焼野・中ヤケノ・トヲノヲ・平山・東ヤケノ・ナカタ

 (語意・語源)
  新貝〜新開・新屋敷・今田・今治・新田などと同じ意味で、江戸時代以降に
     開発された水田を指す。慶応二年(1866)に石堂溜池が築造さ
れて水田化された。新開が転訛して新貝となり地元ではシンゲと呼んでいる。
  ユフ子〜ゆふねと読む。湯船のような形の湧出場をもつ温泉に因む地名。平成14年、この地から58度の温泉が湧出して語源を立証。先人の見識が活きていた。
  内河野〜「ウチコウノ」のコウノは川野の意で「川流によって開けた原野・
      川の流域の原野のあるところ」を言う。ウチはその範囲の意か。
      県内に多いが院内町に上内河野・下内河野がある。
  高平〜 高いところにある傾斜地・平野の意。
  平山〜 傾斜地が長々と続く山の意。
  アリクヒ〜アリは有で谷を表し、クヒは崩(クエ)が転化したもの。
       「崖崩れの多い谷」の意との説がある。
* 机張原地区の地籍図が見つからないので旧小字名を記載出来ない.が現在の大字・小字リストをみてみると
大字高崎  
小字〜 キタヒラ・机張原(キチョウバル)・ケハノキ・桜平(サクラダイラ)・新村(シンムラ)・スケタ原(スケタバル)・高保木(タカヤスギ)・
ナカタ・平田(ヒラタ)・南平(ミナミダイラ)・女狐(メキツネ)
  となっている。( )内は大分市役所の読み方。

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宮苑の地名

 古くは宮園とも書かれたが宮苑が本来の語。柞原神宮の園・菜園地に由来するものであろう。みや(宮)はミ(御)・ヤ(屋)で �神の居る所、神社
�天皇の住む御殿・御所・行宮  �神社に供された地、神領も含む、などの意味があるがここでは�と�。筆者は、より狭い範囲に考えて現在の上宮苑地区、日吉神社周
辺の畑作地域を指すものとみている。宮苑・中村地区は高崎谷からの水流によって太古・弥生時代から水田耕作が発達していたことが考古学資料で裏付けされてい
る。千代丸古墳や中世の宮苑遺跡はこの地が古くからの水稲生産による経済力の高さとその蓄積の豊かさを証明していると言えよう。「正保郷帳」に宮園村382石余
として出ているが江戸期以降の村名である。宮園・宮苑としての歴史資料上の初見は遅いが、同じ地域を表す千代丸名は嘉元3年(1305)、2月の由原宮年中行事次
第に見えるのが初見で、鎌倉・室町期に登場している。史料上では千代丸、千代丸名、千与丸
と混用されて記載されているが宮苑の代名詞的地名であることに変りはない。千代丸古墳と千代丸名について以下に概観してみよう。

千代丸古墳と中世千代丸名
 旧宮苑村のほぼ中心に位置する千代丸古墳は6世紀末に築造された横穴式円
墳である。大和地方を中心とした豪族達の連合によって大和政権が成立した3世紀末〜4世紀初めに始る所謂古墳時代は、仁徳陵や応神陵に代表される大規模な前方後円
墳の築造に始まり、政権の浸透とともに各地に広まったが、後半期には巨石を使った横穴式の円墳が多く作られるようになった。千代丸古墳が作られたのはその古墳時
代の後期にあたる。稲作を中心とする農業生産の発展を基盤にして成長した豪族や在地の首長が出現したことは、この古墳という大規模な墳墓の造営によってよく理解
される。一面において、古墳は階級分化の結果物と見ることができるのである。千代丸古墳の被葬者については国造・大分君の一族であろうといわれているが定説に
至ってはいない。千代丸を中心とした宮苑・東院地区において、一般の農民とは隔絶した支配者
階級たる豪族・首長が突然に現れて、その権力の表徴として大規模な古墳を造営したのではなく、弥生時代に始った稲作農業の発達に伴い漸次階級的分化が形成されて
いったのであって、相当長い時間の経過があったであろうと思われる。
先年中村地区から弥生時代の遺物が発見され、この地における水田稲作の古い歴史を証拠立てたが、それを可能にした自然用水の便は高崎谷からの湧水によるものであ
る。
大分市教育委員会が1998年度に実施した「中世賀来荘の歴史的景観を復元する調査」(FUNAI・府内及び大友氏関係遺跡総合調査研究年報 �)には宮苑地区の
詳細な耕地利用状況と用水利用状況が報告されており、実に貴重な資料である。同報告書の用水利用状況調査の説明を以下に引用する。
 (大字宮苑字千代丸地区)
「大字宮苑のうち賀来川左岸、字千代丸を中心にした地区で、千代丸名の故地に比定されている。この地区の用水は地区内を流れる賀来川支流の宇曽谷川を境に2つの
地域に分けられる。右岸地区は宇曽谷川の谷筋で取水し、灌漑する。その水は宇曽谷川と賀来川に落ちる。左岸地区はほぼ圃場整備が終わっている。北側丘陵から流れ
出る小川や自然水を給水源とする。旧字図にもある地区中央の荒平池は水不足時にのみ使用するという。水は宇曽谷川と賀来川に落ち、一部荏隈郷井手にも落ちる。荏
隈郷井手の取水口より上流部に位置し、その影響は受けていない。現在の給水源状況からみて、中世段階でも水田耕作は可能であろう。」

� 府内藩時代(豊府略記より)
高崎口、古殿、千代丸、寺山、中村、井上、角ノ前、台ノ田
鶴蒔田、田ノ口、立平、小迫、葉毛、荒平、田原、塚田
(語意・語源)
 高崎口〜高崎への入り口。現在の道筋と違って当時は石城川沿いに道が
     通っていたから高崎へはかなり急な登り坂となる。
 古殿〜 古園の転訛で柞原神宮の菜園地
 千代丸〜�チ・ヨという地名。�センダイに千代の文字を当て読み替えた地名。�瑞祥地名 とあるがここは瑞祥地名ではないか。
     〜丸は平地を表す原(バル)の転訛したもので北九州に多い。
 寺山〜 惟福寺の所有地との説がある。一説には寺址とも。緩やかな地形をした山の意もある。
 中村〜 村の中心地の意。
 井上〜 初瀬井路の上の意。
 角ノ前〜角(かく)は賀来の転訛で、賀来の手前という意味であるとの説がある。柞原神宮から千代丸を経て賀来の善神王社へのルートがあり
     その道筋に由来するのかも。
 台ノ田〜丘などの平らで台のようになっている田。
鶴蒔田〜鶴は津留・水流と同義で川に沿った平地を指す。
田ノ口〜田の水の取り入れ口。
立平〜 タテビラという。立は急傾斜地を云う。一方が台地続きで、一方は川や沢になっているところ。
小迫〜小さな迫。
葉毛〜がけ、山の斜面の崩れた所を指す。急傾斜地や丘陵山地の片岸の意。
   往々にして地下水が湧出しており水を吐く意のハケ(吐)や、水がとどこおりなく流れる意のハケ(捌)を云う場合もある。
荒平〜アラへラという。荒は荒いでごつごつとした平地のことか。
田原〜タ・ハラという地名か。タワ・ルという意味か。
塚田〜塚は古墳のある山をいう。千代丸古墳の近くの田の意か。
この地区には台ノ田・鶴蒔田・田ノ口・田原・塚田のように田の付く地名が
多いのが特徴であり古くからの水田地帯が地名に生きている。
�明治9年の神社合併願
山ノ下〜日吉神社のある所
スワヒラ〜諏訪社のあった所
シギノミヤ〜八幡社・鴫の宮社のあった所

� 明治15年(大分縣各町村字小名取調書)

角ノ前(古城、ニュウジガタニ、上平、高井樋、アラマキ、井ノ口、井出上、下平)
中組 (岩阿弥陀堂、穴井ノ久保、金迫、荒平、クロトグウ、打越、セソ、 歳ノ神、四郎房、鴫ノ宮、ツカダ、御倉、アカボヲ、中村、尻込)
宮苑 (小迫、一ッ石、立平、田ノ口平、外野地、蛇石、鷽ノ迫、山ノ辻、堀外、古殿、寺山、観音淵、原ノ下、広瀬、城ノツル、田ノ口、小河ノ尻)
(語意・語源)
 古城〜小城。小さい城砦のようなもの。
 ニュウジガタニ〜意味不明。
 高井樋〜初瀬井路の水門のあるところ。
 岩阿弥陀堂〜岩見堂・横穴墓がある。
 穴井ノ久保〜「湿った小さい谷」または「穴の中のような地形」の意。
 クロトグウ〜意味不明。
 セソ〜語意不明
 鴫ノ宮〜新奇八幡宮のあった所。
 御倉〜 千代丸古墳を御倉と呼んでいたのではないかと思われる。
 アカボウ〜語意不明
 尻込〜じめじめした土地、湿地。
 打越〜谷〜山頂への道を登った向こう側。山を越したあたり。山を越える所、鞍部の意もある。
 鷽ノ迫〜アトリ科の鷽鳥に因む地名か。
 広瀬〜石城川の瀬が広くなっている所。
� 明治22年の地籍図
アラマキ、角ノ前、上ノ平、イワミトウ、諏訪、小城ケ台、中村、天神木、金迫、北神田、千代丸、シキノミヤ、アラヒラ、トシノカミ、ハゲ、田ノ口、ショノツ
ル、ヒロセ、ハル、テラヤマ、前田、宮ノ下、ウソノサコ、立平、田ノ口林、 コザコ、セメ、
(語意・語源)
アラマキ〜牧場の意
北神田〜北新田で新しく開いた水田の意との説がある。
イワミトウ〜岩阿弥陀堂→石見堂の変化か

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石城余話

 以下は石城に纏わる余話である。

 石城の字を当てて「いわき」と読ませる地名がある。「和名抄」陸奥国に「磐城郡」で出ているが、常陸風土記には「石城郡」とある。「記神式」に「石城国造」で初見し、上代の一国であった。すなわち「石城国」と国名とされたこともあったが、中世には郡名として残されたのである。現在の福島県いわき市周辺に当る。また同じ和名抄に伊予国宇和郡に石城郷がある。語意・語源は「岩の脇」「湯の湧くところで湯湧きの転訛」「岩で作った城のあるところ」(吉田茂樹説)、「岩木で石炭を産した地」(吉田東伍説)など諸説あるが、楠原祐介によればこれらはいずれも詮索しすぎであって、キは場所を示す接尾語、「岩のあるところ」を呼んだ地名であろうと簡潔に断じている。

 石城をセキジョウと読む地名が朝鮮半島にある。日本地名大辞典によれば、

 「セキジョウ  石城面  せきじやう
  朝鮮忠清南道扶余郡の東部。扶余面の東南隣にて、
  西南は錦江を境として楊岩面に対し、東南は支流
  石城川によりて論山郡と隔たる。北部に太祖峰、
  西部に破陣山等の丘陵性山峰あるも東南部・
  南部の石城川及び錦江に近き地には低地ありて
  水田よく拓け、米・麦・豆・芋・麻等の農産あり、
  養蚕行われ、石城・新日の二鉱山ありて金・
  銀を出す。扶余・論山間の道路に当りバスの便あり。
  面邑石城は日本書紀天智天皇二年の條に、
  犬上君馳告兵事於高麗面還見糺解於石城とある
  地とす。」

とある。

ここで云う「面」とは我が国の「村」に相当する語である。扶余郡・扶余面の扶余は古代朝鮮三国の一つである百済国の最後120年余の都城・首都であった。別名を所夫里とも呼ぶ。百済国は我が国との交流が深く、とくに日本文化の発達に寄与した点特筆されねばならない。仏教の伝来や五経博士の派遣、暦学・医学・易学・美術・工芸の多方面にわたる教師の派遣、日本からの留学生の渡航などなど。また百済人の日本帰化や移住も多く、彼らは政治・文化の面で先進的な役割を果たした。天智天皇の時代、もっとも親しい外国は百済であった。その故に、天智2年(663)百済が唐・高句麗連合軍に攻められた時我が国は百済救援のため大軍を派遣、白村江で大敗することになる。前文の日本書紀天智天皇2年條はこの時の記事である。このように我が国との密接な関係と歴史的背景をもつ百済国の、その最後の首都・扶余に近隣する地域に、石城川村とおなじ発音のセキジョウの地名があることは偶然のこととはいえなにか不思議なものを感じる。

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石城の由来

この項の終わりとして、「石城川村」の「石城」の由来について検証してみよう。
挟間町教育委員会刊「挾間町の文化財・石城地区の文化財」(第3集・平成十年二月発行)によれば「昭和42年以前は由布川を挟んだ石城地区の田畑は、ほとんど石垣で囲われ、旧由布川からみると、段々に上へのびる水田の石垣が、まるで大きな城を思わせるような、壮観な眺めであった。石城の地名の起こりも案外こんなところあったのかもしれない。」と記してある。この話は内成・詰地区の近世の棚田の景観をもとにした印象、感想に過ぎないが、棚田が石の城に見えるというのは傾聴に値する。石城の語源について加藤貞弘は「セキ(挾)、シホ(凋)で挾くなって崖に萎まれたような川のこと」の意で、セキシホがセキジョウに転訛したものとしている。
明治45年1月刊の「石城川村々是」に
「本村ハ大分郡ノ北方ニ避在シ、四囲山脈起伏シ、平地甚ダ少シ。北由布川ハ西ヨリ東ニ流レ、中央ニ石城寺川アリ。(中略)石城寺川ハ同字(内成)ノ古刹ナル石城寺ヨリ流出セシニ依リ此名アリ」とあり、石城寺川すなわち石城川が村域の中央を流れている地形の故に「石城川村」と命名したのであろう。その「石城寺」とは「雉城雑誌」に
「又、仁聞菩薩、其石上寺堂宇、青岩ヲ加持スルニ霊水忽湧出ヅ。爾来、其水大旱大雨ト雖、増減ナシ。今、内成石上寺是也」とある「石上寺」のことである。石上寺が古刹であることは文化元年(1804)の「豊後国志」にも同様の記事がある。時代は遡って承和十五年(848)、続日本後紀巻十八仁明天皇の記事に「(前略)於同郡寒川石上。獲白亀一枚」とある石上はのちの石城寺の石上であると筆者は信じている。したがって石上(せきじょう)が石城に転訛したのであろう。内成には石上寺のほかに、蓮台寺・善光寺・極楽寺等があり平安鎌倉期には石上寺を中心とする仏教文化の華が開いていたらしい。これらの寺院は天正の兵火で滅亡したといわれ、加えてキリシタンがこの地に広まるに及んで廃寺に追い込まれたものと思われる。江戸時代に入りキリシタンの厳禁、仏教の保護策によって寺院は息を吹き返し、石上寺も寛文年中(1661~1672)に雲清禅師によって再興された。そののち 明和七年(1770)に加納山佛海が住職となり、「梨洞山石城寺之記」を著したがこの頃に「石上寺」が「石城寺」とも呼ばれるようになったのではあるまいか。佛海著「梨洞山石城寺之記」には「鬱蒼とした樗(おうち・栴檀)の樹林の中に高くそびえ立つ岩々があり、寺はそのまん中にあるゆえに石城という」と記されている。佛海和尚は石城寺を取巻く景観の中で特に大きな岩・石に注目して「石城」の由来を記したのであろうか。確かに現在でも石城寺の庭園や周辺には巨岩・奇岩が沢山あって一見の価値はある。一方日本の棚田百選に選ばれた内成の中でも、石城寺に連なる太郎丸や山際の棚田は、中畑や下畑、あるいは梶原あたりから見上げればまさに巨大な石の城のようである。棚田が整備されたのはいつの頃かは断定しえないが、村高の推移をみれば江戸中期に内成村の石高が伸びたことがわかる。正保4年(1647)の石高は492石、明暦3年(1657)511石、元禄14年(1701)526石、天保5年(1834)595石と約200年の間に100石も伸びている。このころに現在見るような棚田が出来たのであろう。そして佛海和尚が「石上寺」を「石城寺」に変えた背景にはこういう内成の景観の変化もあったのではのではあるまいか。以上はあくまでも筆者の勝手な推測にすぎない。
余談にわたるが、棚田いわゆる段々畑はどのようして作られるのであろうか。
少し長いが、樋口清之著「梅干と日本刀」を要約して引用しよう。

「山の喬木などが生えているところを水田にすることは大変に難しいことである。順序からいえば、まず山を焼く。焼畑開墾が最初である。林を焼いて、その炭や灰を土に鋤込むと、アルカリによって土壌が酸性から中性に変る。そこへ稗や豆を蒔いて収穫する。火で焼いて作る耕作地だから、火の田すなわち畑である。耕作しているうちに段々と平になり、木の根も腐ってなくなる。凸凹もなく、障害物もない耕作地だから白い田、つまり畠である。それが完全に水平になると水が引けるようになり,はじめて田となる。畑→畠→田という文字は水田開拓の順序を証明している。水田農耕には常に豊富な水が必要である。水は上から下へ流れる。下で先に水田を作っておいて,次に上に作ろうとすると,下が難儀する。我が国の本来の段々畑は上から作ったものであるといわれている。」

内成の場合は一番高いところ・石城寺に水源があることがなんといっても天与の恵みであり、七蔵司や高崎と大きく違う自然条件であるが,さらに石城寺の下にはかなり急な斜面が広がっている。この水と斜面という相反する地形条件を克服して稲作農業をするために棚田の発想となったのであろう。棚田を作るには石積みの技術も要るが、なんといっても石材が豊富でなければならない。内成はこの水と石に恵まれて、棚田を作り,稲作農業を発展させたのである。
さて、明治45年版の「大分縣地図」によれば、現在別府市大字枝郷岳の脇にある小鹿山(727・6m)を石城寺山と表示している(別図参照)。小鹿山麓には神楽女湖などの湿地帯があり、おそらく石城寺川(石城川)の水源もこのあたりと考えられたのであろう。さらに付言すれば、吉田東伍の名著「大日本地名辞書」には四極山、すなわち高崎山を石城寺山と記載している。これは明らかな誤りであるが、ここにも石城寺の名が誤用されている。このように山にも川にも石城寺の名が冠せられていることは、この地域一帯には古刹としての石上寺(石城寺)の存在が古くから広く浸透していたことを示すもので注目に値しよう。このたび渡部宗俊住職の手で佛海和尚著「梨洞山石城寺之記」の原本が発見され修復されたが、住職のご厚意によりその全文を以下に掲げる。
梨洞山石城寺之記
「豊之後州府城西南三十里程為内成郷ゞ之西北有一巨山名曰梨洞山獄秀一昕凝蔚冠羣山巉巖竒絶考樹深邃寺居其中央是曰石城練若乃人聞菩薩之所創也十一面観世音大士亦聞老親手造刻也而寳亀延暦之間聞老禅此山住大三味慈化救濟古道場也故老相傳此地徃昔乏水郷民恒以為患聞老愍之便起以錫卓地清水随而涌出矣于時郷中東西之農夫争論水之多少其夜七尺有余三稜巨石無何涌出卓然自立乎泉口之中心等分流於東西之田畦而彌漫矣爾来於本邑無有旱損之憂稲穀豋熟挙郷霑化由是倍加歸崇各詣練若鳴謝法澤之大貺聞老曰水也我之命身也一條之石體又有時牧童為□号於水蛭流血聞老憐覗之問是何耶為歟童以寶愁答聞老便以錫挃蛭蟲曰汝是今後泣勿噆食人之血肉於此乎雖水蛭多迄今不□着于人也嗚呼聞老之慈化等及人畜哉余稽宇佐八幡之縁起聞老者乃八幡大神之応化也世俗之所言非妄誤也徃年大神當欽明天皇之代託曰我是第十六主譽田天皇廣幡八幡也我名護国霊験威身神大自在菩薩諸州諸所垂迹於神明今顕坐此地耳因之局敕建神祠宇豊前州復至延暦中大神託曰我無量到來化生於三有修善行方便濟度諸衆生我名曰大自在王菩薩以是観之八幡大神者則人聞菩薩也人聞菩薩者則大自在王観音菩薩也蓋三即一一即三随宣應縁和光同塵於一切衆生之用處或現菩薩身或現神明相或現比丘形種々化身以是其欲心救世悉安寧且石城之境致四旁五百歩自隊聞老在寺之時世之国主水以報三寳直至于今千秋不易焉惜哉近古己來遭戎馬之変法寶散失日就頽圮寛文之間有雲清神人來主院事僅築堂房是為中興雲清没後無相継主山者越百余歳至寛延中本州由原之僧承継進來倡天台之宗未成棄去蕨後亦主者乏人唯禿丁守房室耳明和庚寅暮春余愛其勝地自納山携杖來其坐於室干時郷中有抗志慕古之士某氏等先是喜捨浄財清京師之佛工造荘開山聞菩薩肖像安置殿之左辺比復袖斯軸來譜余縁起以作之相傳於後丗其志誠有可嘉于是紀其所自始併序寺之廃興及興銘於人之口碑而今□有之化蹟一二以貽無窮云爾。明和上章接提格夷則觧其日浄蔵佛海書於石城丈室」

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石城川村に特有の地名語源

次項以降に旧村別に地名を掲げていくが、その前段として石城川村に比較的に多い地名の語源について、解説しておこう。

クエ~<崩>
崩壊地。山腹の崩れ谷、あるいは山崩れによって平らになったと思われるような山。アリクイ(高崎)はアリクエの転訛であろう。

クボ~<窪・久保>
窪地のこと。猪ノ久保・鉢ノ久保・五反田ノ久保・穴井ノ久保・立石久保など。

コウチ・ゴウチ~<河内、川内>
河谷のこと。迫(サコ)よりも広く、長く連なっている谷に多い。内河内・河内など。

コエ・コシ~<越>
尾根の鞍部などを越えて行くところ、峠。鳥越などは鳥が山を越えるとき低い鞍部を通るところから来ている。内成・七蔵司・高崎に鳥越(トリコエ、トリコシ)あり。

サコ・ザコ~<迫>
谷間。とくに谷より規模が小さく、源頭部で尾根に囲まれた狭い場所をさす例が多い。大迫・後迫・中ノ迫・目ノ子迫・金迫・鷽の迫・迫・八郎迫・四良迫・風呂迫などが石城川村にある。

ソノ・ゾノ~<園> 
畑などと同じものかもしれないが、律令の園地の流れをくみ、荘園の徴税単位となっていた在家を意味するものが多いといわれている。柞原八幡宮の菜園地との説もある。御園・中園・北園などのほか宮苑や古殿(園が殿に転訛)
も同じ語源である。

ツジ~   辻。
①村の中などで道が交差している所。
②山や丘の頂。宮ノ辻・辻・峠ノ辻・諏訪ノ辻など。

ツル・ヅル~<鶴・津留・釣>
川のほとりの平地。河口の三角州、中流の川岸、山間の小盆地などに見られる。水流を伴っていることが条件で、ツルの意は平地よりはむしろ水流の方にある。由布川の左岸、詰・田代・来鉢地区に多い反面石城川流域にはこの地名はない。この語源の典型的な例は宮崎県日之影線の川水流(かわずる)」である。五ヶ瀬川の蛇行地に出来た平地でまさに水流(ツル)である。石城川村の近在では小野鶴(賀来)や底鶴(谷村)も同じでここでは津留が鶴に転訛している。

ヒラ・ビラ~<平>
平地。平らなところ。山間に開けた場所などの際は、水平地よりも緩傾斜地を指していることが多い。方言的にヘラと呼ぶこともある。高平・ムカイヒラ・北平・南平・立平・下平・荒平・小平など多数ある。

つぎに重複している地名についてみてみよう。とくに七蔵司・高崎地区に多いのは高崎山南麓の地形の相似によるものであろう。

四良迫(七蔵司・高崎)
高平(高崎・七蔵司・来鉢)
ユフ子(高崎・七蔵司) 
ハル(詰・田代)
井手上(詰・宮苑)
堂面(七蔵司・内成)
鳥越(七蔵司・高崎)
堀外(高崎・宮苑)
トヲトコ(高崎・七蔵司)
大下(田代・七蔵司)
立平(田代・宮苑)
穴井ノ久保(七蔵司・宮苑・高崎)
古殿(高崎・宮苑)
落合(七蔵司・高崎)

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豊府略記

まず、上記明治政府による地名調査より前、江戸時代に書かれた①の「豊府略記」によって地名をみてみよう。

○新村
  大迫、女狐 
○高崎村
  石堂、後村、水毛、本村、北ノ園、古殿、太治郎
○山口村
  瀬戸、龍尾、木ノ後、屋形、米山、木戸、立射地
  御園、曽尻園、奥、場治郎
○七曾子村
  都原城、椎山、原ノ平、上、後迫、市伊木、梁入田
  瀬戸、大井、東、西、大久保、新屋敷、園
○宮苑村
  高崎口、古殿、千代丸、寺山、中村、井上、角ノ前
  ノ田、鶴蒔田、田ノ口、立平、小迫、葉毛、荒平、
  田原、塚田
○来鉢村
  古園、無田、竹ノ中、一ノ原、板屋平、袋、鬼塚、
  杉ノ木、辻、丸田、法師園、小影木、中園、竹ノ上
  目ノ子迫、荻ノ尾、なら山、綿田、くぬぎ山、芦松
  影ノ木、下来鉢、平石、底津留、西鍋、久保津留
○中畑村
  中畑、向山
○平床村
  平床、本村、小明婦
○内成村
  下畑、仁田原、上洗、下洗、うと、八郎迫、大久保
  田ノ口、平ノ園、野地、勢家、天神谷、御園、蓮台寺
  丸山、仁田尾、船川、板ノ平、中ノ迫、梶原、井ノ向
  久保ノ山、古河内、猿山、御申、松葉、椎葉、太郎丸
  迫、上ノ園、石上寺、山際、宇曽ノ尾、神林、立添、
  中園、南、八木谷、鎰掛、詰、おく詰、小平、
○田代村
  大霜、東、後山、登龍、可佐、久保、田迎、権蔵、
  うる迫、原、夜ふ園、田釣迫

「豊府略記は豊後府内藩管内の数少い貴重な旧記であるが、此の書は原本も著者も判明せず公刊されたものもなく、只数種の伝写本によって伝承されているため誤、脱、異漏が甚だ多い。」(豊府略記の校定について)とされているが、江戸時代における石城川地域を含む豊後地方の地名を探る唯一の史料として尊重したい。
ただ豊府略記に出ている地名は、人家のあるところ、人の住んでいるところに限られていたように思われる。
②の神社合併願は明治九年一月に当時の第三大区二十二小区の六村が連名で大分県令に提出した書類である
④の地籍図は明治22年の町村合併令に先行して明治19年頃よりはじめられた、所謂「地籍調査」の結果ほぼ現在の小字が確定したものであり、現在も行政上使用されているものである。なお、第三大区二十二小区は明治22年に合併して石城川村となったがその時、旧村名は大字として残された。
上記①、③、④を表にまとめれば以下のようになる。

     ①豊府略記 ③字小名調査 ④地籍図
宮苑    16       43       28
高崎     9        79       20
七蔵司   25       98       35
来鉢    26       25       25
田代    17       12       19
内成    42       26       68
計     135      283      195

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大分縣各町村字小名取調書

明治政府が力をいれて実行してきた地租改正の大事業は明治14年に完成する。その結果地主には一筆ごとに地券が交付され、それには必ず小字名が記入された。同年政府は、全国各府県に命じて小字名調査を実施した。その時の太政官達八十三号に曰く「各地ニ唱フル字ハ、其地固有ノ名称ニシテ、往古ヨリ伝来ノモノ甚多ク、土地争訟ノ審判、歴史ノ考証、地誌ノ編纂ニハ最モ要用ナルモノニ候条、漫ニ改称、変更、不致様可心得、此旨相達候事」(明治14年通達)。その報告が「地理雑件」として内務省地理局に集められ、その膨大な資料は東京帝国大学に寄託されていたが、不幸にも関東大震災の折に大半を焼失してしまうが、幸いにも大分縣版は原稿が残されていた。これが別表①の「石城川の地名一覧」であり文字化された最初の資料である。一覧してわかる通り各村の調査、報告に対する対応はマチマチである。村役場などの行政体制が整ったのは明治22年の石城川村の成立後であり、この時期は第三大区22小区と呼ばれていたから、小区毎に用務所が置かれのちにこれが戸長役場となった。おそらく戸長が各村の報告内容を整理したわけでもなかったから、各村惣代を中心とした長老グループがマチマチに対応したのであろう。七蔵司村や高崎村が詳細に渡り、内成村、田代村、来鉢村は簡素であり、宮苑村はその中間といった具合になっている。大村である内成村や来鉢村にはこの他にも多くの地名があったが、なんらかの事由で大半の小名を整理して報告したのであろう。
本稿では地名記録を①豊府略記、②神社合併願、③大分県町村字小名取調書、④地籍図(正確には土地登記簿付属地図と呼ぶ。明治期には字図・字切図・字限図と呼ばれた。ここでは明治22年に制定されたものを使用する。)に分けて検証することとした。

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地名の歴史

さてそれではそもそも地名はいつ頃つけられたものであろうか。
藤岡謙二郎はその著「日本の地名」で
「地名が最初人類集団によって使用した年代は明でない。しかし少なくとも階級の発生を物語る3~4世紀以降の古墳時代には人口も増加し氏族や隷属民の居住の場所を明にするために今日残っている地名の大部分が使用されたものと考えられる。」としている。随分古い時代に遡るわけである。大分地方では大分市三芳字宮畑にある亀甲山古墳が四世紀後半に比定され、千代丸古墳は六世紀末~七世紀初の築造とされているところから當石城川地域ではおそらく最も古い地名でも四世紀後半以降とみていいのではないだろうか。
ところで地名の表示では「漢字」「かな」「カタカナ」が混用されている。
漢字は中国大陸の文字でその伝来の歴史は古いが、音声をそのまま表現する試みが成功して、宮廷の女性の世界から「ひらがな」が、寺院の僧侶の世界から「カタカナ」が生まれたのは九世紀から十世紀にかけてのことであった。後出の地名一覧でみるように石城川の地名にはとくに「カタカナ」が多いように思われる。このことは地域の開発具合とも関連するが、中世以降の寺院の創立と関係があるのではないかと筆者は考えている。
筆者が地名研究を志す端緒となったのは、昭和53年の「角川日本地名大辞典」の刊行である。同書の編纂のことばのなかで編纂委員長の竹内理三博士は
「歴史を通観してみても、地名は時代の推移とともに、興亡盛衰の常なき過程を経つつ今日にいたっていることがわかる。地名は、在地の集団の必要上の、地域集団の私製に始まり、国家体制の進展によって官製化されるという趨勢の中で、強く己れを主張しつつも、後退を余儀なくされつつ、今日を迎えている。この状況は、20世紀を終わろうとする今日、その極点に立っているといえる。それは、地名の性格からいえば、本来、地域社会の中から発生した地名から国家行政上の地名へ「生活から政治の地名」へという、地名の質的転換であり、歴史的にみれば、民族遺産としての地名が、その最後の姿を喪失しようとする時期でもある。民族遺産としての地名を書きとめること、今日ほど急務の時はない。」と格調高く述べておられるが、これに触発されてのことである。
平成14年秋、大分市は賀来地区の区画整理を施行し新たに「賀来北」「賀来西」などの地名を創出した。角の前に隣接する地域である。これによって「餅田」「中島」などの旧来の地名は表面上姿を消すわけであるが、地域開発はこのように歴史上の由縁を行政的に抹殺していく。石城地区に開発の手が延びる前に伝統ある地名を書きとめ、その由縁を明らかにしておくことは今日に生きる我々の責務であると考えて、微力ながら敢えて拙稿を纏めることとした次第である。
さて、地名が国家行政上の地名へと質的転換を促された具体的な例は政府による「字小名の調査」であろう。

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地名の分類

ところで地名を研究した先学によれば、広範、多岐にわたる日本の地名もある基準によって分類が可能であるという。吉田東伍・楠原祐介・都丸十九一などの先学の代表として前出の柳田国男の説を挙げよう。柳田は

①利用地名
通過、採集、捕獲、耕作など土地利用の目印、対象となったもの。
最初の地名。

②占有地名
個人、家族などで山林その他を所有した時の地名。

③分割地名
上記二つを基準にして、それを区画(上、中、下とか東西南北など)
して呼ぶ地名。

の三部に分けて分類している。地名の研究をふくめた民俗学の分野における柳田国男の存在は巨大で今日なおその影響力は大きい。
また梅木秀徳も(大分の地名)のなかで、①自然地名②歴史地名③生活地名に分類しているが、この説は簡潔で分りやすい。梅木説によれば

①自然地名~地形にもとづく地名。
谷・迫・河内・津留・鶴・窪・大久保・鉢久保・鳥越など。

②歴史地名~政治制度に関係するもの。
古国府・国分・城の腰・用作・堀の内など。

③生活地名~歴史地名の中で、人々の生活に縁の深いもの。
田代・新貝・井手・焼野・辻・弐里木など、農業に関するものが多い。

また地名由来伝説について、大藤時彦によれば「一般に地名に説明伝説がついていることは、古風土記以来のことであるが、多くは地名の意味がわからなくなってから、かってな当て字を書いて付会したものである。」(世界大百科事典、平凡社)ということになる。
卑近な例を挙げれば景行天皇の巡幸と碩田伝説がある。豊後風土記によれば天皇が豊前京都の行宮より大分に巡幸した際に「地形を遊覧して嘆きて曰く、広大なる哉この郡は。宜しく碩田国と名づくべし」といったので碩田とよび、その後大分と呼ぶようになったと説明しているが、渡辺澄夫は、大分は<大きな段>の意味で、地形の錯綜したことからきた自然地名であると述べている。渡辺説を「大分県の歴史」から引用すれば「この地名伝説ができた頃すでにこの地方をヲヲキタとよんでいたということである。もちろんそれは景行天皇の命名ではなく、自然発生的なものであろう。こうしてこのヲヲキタは当時文字が伝わって大分と書かれ、すでにその意味がわからなくなっていたということである。そこで大分の言葉のおこりを説明するため、碩田をもってきて語呂あわせをしたものであろう。」ということになる。風土記の上進を命じた、和銅六年(713)の命令では、郡や郷の名前には好字(よきじ)をつけて報告するようになっている。 大分よりもはるかに好字である碩田の字を郡名としなかったことは、「現実の地形が多くの谷と、いくつかの旧河道、自然堤防の微高地で分断されており、伝承が実態とそぐわないことが明白であったからではなかろうか。渡辺説が、地名の語源としては、妥当であるといえよう。」と大分市史は渡辺説を支持している。
楠原祐介は「地名用語語源辞典」のはしがきに
「地名伝説自体は、地域住民の精神生活史の一班を物語る貴重な資料として採集、記録され分析されるべきものである事は論をまたないが、しかしそれがあたかも真実の地名由来であるかのように扱われるのは大いに問題であろう。地名は無数の、無名の、幾世代にもわたる不特定多数の人々の暗黙のうちに確認された共通の認識によって成長したもの~という本質をふまえるかぎり、特殊な個人や集団の業績顕彰の道具とするような地名解釈にはわれわれはとても賛意を表するわけにはいかない。」と書いているが至言である。なお景行天皇伝説に敷衍すれば、現在の学説では実在が確認されている最古の天皇は第15代・応神天皇であって、それ以前の第12代に当る景行天皇はその実在が疑問視されている存在である。
地名の由緒、由来伝説には中央の貴族や高僧に関係付けられたものが多いが、そこには古代人の素朴な郷土愛と祖先の誇りが底辺に横たわっていることもまた一面としてみておかねばならないであろう。伝説は伝説としてその地域社会に必要があって伝わってきたものであるから、大切に扱わなければならないと思う。しかしながら伝説が大切なものであるということと、歴史事実とを混同してはならない。伝説と歴史とは厳密に区別されるべきものであると考えるからである。
とまれ石城川の地名が以上にのべた如き、全国的な分類にすべて当てはまるとは思えないが、とくに地形に因んだ自然地名がほとんど大部分を占めていることは確かである。

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はじめに

地名は人間が共同生活を営む上で必要にせまられてつけられ、それが定着したものである。住人がただ一人ならば地名は必要ないであろう。勝手に「あそこ」「ここ」ときめておけばよいし、また勝手に好きな名前をつけておけばいい。しかし仲間が増えて五人、十人ともなると、それぞれが勝手に呼んだのでは収拾がつかない。どうしても皆に共通の名前が必要になってくる。地名はこうして生まれてきた。柳田国男は「地名とはそもそも何であるかと云うと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。一部落一団体が一つの地名を使用するまでには、度々其処を人が往来すると云うことを前提とする外に、其地名は俗物が成るほどと合点するだけ十分に自然のものでなければならぬ」と(地名研究)に書いている。すなわち地名は二人以上の、そこに住む成員全員の共通の意識、約束によってつけられたものであり、それゆえに其の地域に住む人々の暮らしに密着しており、文字をもたない時代からの文化遺産であり、隠れた歴史と呼ばれる由縁でもある。我が国は歴史も古く、地形が複雑なうえ人口密度も高いゆえ、非常にたくさんの地名がある。おそらく日本の地名総数はあるいは億を数えるのかもしれない。ほとんど無数にあるといってもよい数であろう。
このような膨大な地名は誰がつけたのであろうか。それは名もなき庶民、ことばを変えれば常民と呼ばれる人々によってその大部分がつけられたのである。ごく少数は支配者、権力者によって与えられた。その例を一つ挙げよう。「高崎」という地名は高崎山に由来すると思うが本来「高き山の崎」という意味であろう。太宰管内志には「高崎は多加佐岐とよむべし、名の義は高き山の出埼有るによれり」とある。これは自然の、地形にもとづく常識的な命名であろう。ところが同じ「高崎」でも群馬県の高崎市の場合は支配者の意思による命名である。すなわち、井伊直政がここに移城するに際して当時「和田」と云っていたものを、これはかつての敵将の姓であるからと、ある僧侶の言をいれて「成功高大」の意から「高崎」としたという記録がある。(金沢庄三郎・日韓古地名の研究)
しかしながらこういう例はごく少数であって、ほとんどすべての地名は日常生活の中で必要に迫られて、使用してきたもので、その命名の主役はこれらを使用しなければ生活に不自由をきたす庶民・常民であったと断言して差し支えない。

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